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# 『先生のホンネ 評価、生活・受験指導』
2010/12/06 21:14
先生のホンネ 評価、生活・受験指導 岩本茂樹 光文社新書 2010年



人々の学校生活の思い出に、望む望まないに関わらず、影響を残すのが教師だ。一体、先生は生徒をどう見ているのか。それを知ることで、先生・生徒・保護者・社会の相互理解が深まれば、それぞれの関係も改善するかもしれない。そんな願いが込められた本書は、架空の公立高校、梓高校を舞台にして、学校の日常の裏を探る。

本書は、梓高校に起こった3つの事件を材料に、先生の思考を追っていく。特に多くの紙面を割いているのが、1年生の間で起こったカチューシャ事件である。校則で女子の髪留めは、黒・紺・茶と決まっているのに対して、黒にグレーの模様が入ったカチューシャ、ベージュのカチューシャを付けてくる生徒が出てきたという事件だ。各教師が個々に様々な理想を掲げている上に、教員間の人間関係も入り混じり、指導にブレが生じてくる。そこを鋭く突き詰める生徒とのせめぎ合いは、なかなかの見もの。

そして、2つ目の事件である、進路指導の問題が取り上げられた後で、再びカチューシャの問題へと移る。しかも、今度のカチューシャ事件は、3年生の男子がカチューシャをして来るというものだった。成績が学年トップの男子生徒がカチューシャをして来たら、注意する必要はあるのか。またもや、職員室はもめる。若干紙幅を使いすぎているのではと思われた第1の事件が、第3の事件を多面的に解釈する上での重要な複線になっていたのだということがわかる。カチューシャ問題を通して、不毛とも思えるような校則指導の現状が非常に鮮やかに描き出されている。

公立の中堅私学校という位置づけの梓高校。教師は皆一様に「生徒のため」という言葉を発している。しかし、本当は何が生徒にとって最良のことなのかなど、簡単に決められるはずがない。また、教師は無意識のうちに「生徒のため」という言葉によって、利害関係の絡んだ自分の行為を正当化しようとしてしまうという筆者の分析は、なるほどと思わせるものだ。後悔するような高校生活を送って欲しくないという熱い想いゆえに、カチューシャを服装の乱れと捉え、徹底的に校則の遵守を訴える先生。生徒の無言の訴えに耳を傾けられず、やたらと国公立大学の受験を勧める先生。2人とも、生徒のためという大義のもと行動しているのだ。本当は、「後悔しない高校生活」がどのようなものかなんて、人によって違うはず。また、国公立大学への進学だけが優秀な生徒としての証しなのだろうか。学校という組織の抱える矛盾が浮き彫りになる。
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# 『日本の教育格差』
2010/11/12 17:22
日本の教育格差 橘木俊詔 岩波新書 2010年



日本の教育には、どんな格差があるのだろうか。また、格差はなぜ問題なのか。問題ならば、その是正策はあるのか。このような問いに対する回答が、本書には散りばめられている。学歴格差の問題、親の年収によって教育を受ける機会が狭められてしまうという不平等など、教育に関する様々な格差を、統計的なデータを基に分析し、打開策を探る本。

「年収が1000万円ある家庭でないと、東大進学は難しい」などという扇動的な文句がメディアによって唱えられ、近年、とみに教育の格差について語られるようになっているような気がする。本書は、学歴格差、家庭環境、学校の種類によって生じる教育の格差について、豊富なデータを基に、検討していく。

実際にデータを見せられると、教育の格差問題とは、一言では片付かない複雑なトピックであることがわかる。例えば、学歴格差の問題が興味深い。学歴格差は確かに存在するが、諸外国と日本を比較した場合、大卒者の賃金とその他の学歴の人々の賃金格差が非常に少ないのである。学歴社会と批判される日本の姿を考えると、意外な姿と思わざるを得ない(もちろん、平均という数値は、慎重に見る必要はあるが。一部の極端な例によって大きく引き上げられたり引き下げられたりするのが平均値の性質である)。

最後に筆者が主張するのは、政府が教育に対しての支出を増やすことと、学校での職業教育を充実させることである。私としても、これらの主張には共感できる。例えば、大学に入学するに当たって、公的資金によって運用される給付の奨学金がないのは驚愕の事態として認識すべきであろう。また、これだけ多様な生徒が普通科に在籍する現在においては、進学のみでなく、職業教育に力を注ぐことも、避けては通れない道なのではないかと思う。これらの主張については、概ね世間の支持も得られるであろう。ただし、筆者が主張する、職業科(商業科や工業科などの専門学科)を増やし、普通科以外の道を勧めるという点については、難しいかもしれない。なぜならば、50%程度が大学へ進学できる現在、大学進学の可能性をほぼ排除して職業科へ進む覚悟を持てる生徒は案外少ないのではないかと思うからだ。むしろ、専門学校化した大学を増やし、職業教育を充実させる方が、現実的な道かもしれない。もちろん、それには奨学金の充実が必要なのは言うまでもない。

教育の格差と一口に言っても、一体教育の中の何が問題で、格差が発生しているのはどのようなところなのか。普段、新聞やテレビ、雑誌などの断片的な情報を目にするだけでは、いまいちはっきりしない(実際、冒頭の東大の問題も、真偽は定かではないが、年収400万程度の家庭の子どもも通っていることだけは事実である)。そんな問題について考えてみるきっかけを与えてくれる良書だ。

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# 『なぜ男女別学は子どもを伸ばすのか』
2010/09/11 14:04
なぜ男女別学は子どもを伸ばすのか 中井俊已 学研新書 2010年



男女は、育つ過程が違えば、興味の対象も違う。教師との関わり方も違う。男女別学には、男女それぞれの特性を活かし、能力を開花させる秘密がある。日本の男子校女子校の進学指導や生徒指導の態勢に、欧米での別学事情、近年の脳科学の成果も合わせて紹介し、別学の意義を問いかける。

男女平等の観点から、戦後日本では共学が広く普及した。しかし、共学のみが望ましいとは言えないのではないか。男女別学の良さもあるのではないか。そのような主張を筆者は展開する。筆者はあくまで、男女は平等であるべきだと考えているし、共学の良さも認めている。それでも、各々の成長過程を考えると、両者を同じ教室で指導するのはどうも難しいのではないかということを、豊富な事例を基に考察する。

本書の内容に反論できる点は、2つある。実は、本書のデータは、完全とは言えない。例えば、男女校を目指す保護者に対する意識調査が、共学校を望む保護者のデータと比べることなく掲載されていることがある。2つ目として、個人差の問題があろう。男女の境界とは、ホルモンの量によるものであり、連続的で、曖昧だ。男子との方が気が合う女子がいれば、その逆もあろう。

しかし、全体としては非常に示唆にとんだ内容である。特に、共学の環境では発達障害に分類されてしまうような男子生徒が、別学の環境では活き活きと能力を発揮したという事例は、感動的でさえある。海外の事例も紹介されていて、日本でも真剣に議論すべき課題かもしれない。

男女別学の是非は、男女平等とはいかなる状態を指すのかという、一筋縄ではいかない問題を内包している。これまで以上に、脳科学・教育学、政治学・社会学・心理学・現場の実践が手を結び、考えていくべきテーマだ。

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# 『理系志望のための高校生活ガイド 理系をめざしたら何をすればいいのか?』
2010/09/08 09:52
理系志望のための高校生活ガイド 理系をめざしたら何をすればいいのか? 鍵本聡 講談社ブルーバックス 2000年



何となく、進路というと文系を選択するのが普通で、理系は難しい、大変そうだ、特殊だ、という印象が持たれている。それゆえ、理系の生徒がどのように受験に向かえば良いのかという情報は、案外少ない。理数専門の塾を経営する筆者が、豊富な指導経験から理系の生徒を主眼にして執筆した、高校生活のススメ。

そもそも、理系にはどのような世界が広がっているのかという点から、志望学部選び、実際の受験勉強の進め方、偏差値の仕組み、塾・予備校の利用法まで、おおよそ理系の受験にとって必要なことはすべて載っているのが、本書最大の売り。文理の選択で迷っている者から、実際の受験勉強に取り掛かっている者まで、幅広い高校生に対応できる。

本書の弱点は、大まかに言えば、2点だ。1点目は、平均以上に勉強のできる高校生が主眼に置かれていることだ。勧められている勉強法やペースは、ある程度勉強のできる高校生でないと、とても消化できないように思う。それに、中学校から高校1年生レベルの数学の計算で躓くレベルの高校生に対して、安易に「迷ったら理系」などと言えたものではない。2点目は、コーチングやカウンセリングの知見が活かされていない点。これは、10年前という出版の時期を考えれば、いた仕方ないことだとは思うが、「気の持ちよう」という言葉で片付けてしまっている部分が散見される。メンタル面の管理については、近年の書籍を参考にされたい。

弱点はあれど、本書の存在意義は大きい。世の中の高校生の6割から7割位が文系を選択する状況から考えると、理系の勉強法などといった本の需要は小さい。この本は、そんな社会に対して理系を見直させる役割も果たしているのではないだろうか。

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# 『山びこ学校』
2010/08/31 10:48
山びこ学校 無着成恭 岩波文庫 1995年



敗戦直後の山形県山元村の中学校で実践された、生活綴方の成果をまとめたもの。日々の暮らしの記録、考えたこと、詩、学級日記の内容と、様々な文章が、実際の筆者の名前付きで収録されている。

60年ほど前の教育実践から生まれた本であるが、現在までなお生き残っているのに納得がいく。個々の作文は、それぞれの生活に密接に関わっていて、そこから勉強が始まる。教科書に書いてあったことと比べて自分の生活はどうなのか。今何がわかり、これから何が必要なのか。どうしたら今の暮らしをもっと良くできるのだろうか。何が悪いのかを検討するために、生徒達は、時には算数・数学の知識を用いて、資料を分析する。またある時には、日本の歴史を紐解いていく。

非常に生々しい現実が書かれていることもある。特に、何度か登場するのが、闇市の話だ。正規のルートで販売していたら、とても生活を成り立たせることなどできない。世の中の矛盾に対して、どうしたら良いのかという子ども達の切実な想いが伝わってくる。

農村の貧困を扱った本書は、翻訳されて海外でも読まれたという。現在どうなっているのかはわからないが、もっと日本国外でも読まれるべき価値を持っていると思う。もちろん、日本でも、読まれ続けていくべき作品であろう。編者は、あとがきで、子ども達の教育に関わっていくにつれ、「貧乏を運命とあきらめる道徳にガンと反抗して、貧乏を乗り超えて行く道徳」が芽生えていく勢いを感じたと述べている。この編者の言葉によって、本書の意義は、ほぼ説明されるのではないかと思う。「貧乏を運命とあきらめる道徳」は、今現在でも消滅したとは言い切れない。むしろ、暗澹とした世の中には、格差を背負いつつも世に抵抗するエネルギーを失くしてしまっている気運さえある。

作文を書いた生徒達は、ちょうど敗戦を挟んで教育を受けた世代であるため、手のひらを返したような教育の大転換に対して、怒りや矛盾を感じざるを得なかった。心の内に秘めた行き場のない思いを抱えた生徒の中には、非行に走る者もいた。そんな子ども達を導き、世の中に目を向けることの大切さを指導していった無着先生の力量には、目を見張るものがある。教育の可能性について考えさせられる。

非常に感動的な本であるが、読んで涙するだけでは、書き手達にとっては不本意なことであろう。本当に求められているのは、本書を読んで、自分は何をすべきか考え、行動に移すことではないだろうか。

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# 『知的生産の技術』
2010/07/13 15:05
知的生産の技術 梅棹忠夫 岩波新書 1969年



知識を教わる機会は多くとも、知的な作業を行うための方法に関しては、どれだけ教えられているのだろうか。本書は、そのような疑問の下、知的な作業を行うための「技術」を伝授する。情報の整理の仕方、本の読み方、文章の書き方… ちょっとした工夫で、作業の能率が上がり、かつ良い出来栄えのものを生産できるようになる。

梅棹忠夫氏に追悼の意を込めて、この機会にと思って、読んでみた。出版年は古いけれども、今日的にも意義を持った記述は多い。例えば、情報をすべて同じ形式のカードにまとめて整理するという方法は、本書で紹介する技術の要。なぜその方法に行き着いたのか、カード式の利点が事細かに書かれていて、情報整理の基本を学べる。印象に残ったのは、整理と整頓は違うということである。一見、きちんと物事が整えられているように見える「整頓」で満足してしまい、どこに何があるのか正確に把握できる状況である「整理」という視点を欠いてはいけない。反対に、一見乱雑に思える収納をしていても、「整理」できていれば、問題はないのである。なかなか含蓄があるように思えないだろうか。また、後半の読書・文章に関する部分でも、なるほどと思える手法が紹介される。特に、当時は読書の方法というと、文学的な批評、文章の書き方というと、文芸的な観点からの文章法が多くを占めていた時代である。その中で、学術的な文章を読み、書く方法を考えあぐねた本書の意義は大きいであろう。

本書の目的は、ハウツーを徹底的に紹介することではない。むしろ、知的な作業を行う方法について、話題提供をすることにある。だから、知的生産にそぐわない文房具の現状を批判的に述べたり、文章を書くための形式が定まっておらず、苦心している編集者の現状を示したり、タイプライターと相性の悪い日本語の表記体系について一考を巡らせたりと、幅広い話題を扱う。

本書が発売されてから、一般向けのコンピュータとして革命を起こしたWindows 95の発売までは、四半世紀の時を待たねばならなかった。本書に書かれていることの中には、ワープロやPCによって解決された問題もある。特に文章の書き方、情報の処理の仕方は、PCの普及によって、革命的な変化を遂げた。その意味では、「知的生産の技術」は大きな改変を必要とするであろうし、本書の記述には、時代にそぐわなくなっている部分もある。

しかし、それは、ある意味当然だ。むしろ、40年も前の状況と現在の状況を比べてあれこれ言うのは、全く生産性がない。では、本書の価値はどんなところにあるのか。それは、試験での点取りに収まらない勉強の方法をきちんと教えることの大切さ、きちんと分かりやすい文章を書く方法を指導する重要性を指摘しているということにあろう。この問題は、未だに解決されたとは言い難い。また、情報のまとめ方といった基本的な作業は、家庭用コンピュータが普及した時代でも、大いに参考になる。そして最後に、何となく低級なものとして嫌われている技術について、お互いの経験を共有し合うことの意義があろう。ハウツー本が氾濫する現代においても、案外個人の閉じた世界に封印された技術は多い。個人の工夫に任されっぱなしの領域を、どのようにして世の中で共有するか。これは、伝達する技術が向上し、普及するだけでは解決できない問題である。本質的な課題は、本書出版から40年経過した現代でも残されたままだ。

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# 『「分かりやすい教え方」の技術 「教え上手」になるための13のポイント』
2010/05/29 11:30
「分かりやすい教え方」の技術 「教え上手」になるための13のポイント 藤沢晃治 講談社ブルーバックス 2008年



「分かりやすい教え方」とは、どんなものなのだろうか。この答えに迫るべく、そもそも教えるとはどのような行為なのかに始まり、具体的な心構えや技術を簡潔に示した、教えるためのハンドブック。教えることは案外身近に溢れている。突如先生役になった場合でも、教え上手になれる方法を伝授する。

痒いところに手が届く構成。「分かりやすい教え方」を定義するために、まずは「分かりにくい」教え方について考え、どこがいけないのかを探る。さらに、教える立場にある者が持つべく心構え、教えるための技術が紹介されていて、そのどれもが納得のいくものである。特に、技術については具体的な場面の例または比喩が必ず提示されていて、なるほどと思える。上司が部下に仕事を任せる状況を示した会話例と、その改善例。目標を示すことは、先にジグソーパズルの完成例を示すこと。などなど。本書で、比喩や例示は分かりやすく教えるための技術であると筆者は説明している。「教える」ことを語るために、筆者は自らの教える技術を存分に発揮しているのだ。この辺りが、感嘆すべきところである。

教える機会は身近に転がっている。あまり気張らずに取り組み、ついでに自分も成長してしまおう。それが、筆者が主張する姿勢。やはり、楽しむことも大切だ。

本書の高度な利用法としては、本書で述べられた教える技術を、相手と自分に用いることである。すなわち、人にものを教える場面で実践しつつ、自分の教える技術や心構えの達成度を評価するときにも、本書の内容を活用してしまおうという方法である。そもそも、相手を伸ばすために有効な技術は、自分を伸ばすためにも利用できるはずだ。自分が達成できたこと、今ひとつなところを分析し、褒めるべきところは褒め、悪いところは改善点を指摘する。定着させるために繰り返す。自分で説明してみる。問いを発してみる… 相手を教える技術の中には、自分を「教える」ためにも使えそうなネタがてんこ盛りである。そうやって自らも成長できれば、一石二鳥だ。

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# 『大人はウザい!』
2010/04/29 15:01
大人はウザい! 山脇由貴子 ちくまプリマー新書 2010年



子どもが発する「ウザい」という言葉には、様々な意味が含まれている。怒り、落胆、失望… どんなときに「ウザい」が現れるのか。具体的な事例によって検討すると、実はこの言葉は、大人に対する重要なメッセージを子どもなりの言い方で発しているのだということがわかる。本書は、子ども達にとっての代表的な大人、親、教師、評論家、街行く大人に対して子どもが「ウザい」と思った瞬間を集め、大人が子どもと向き合っていく姿勢、大人のあるべき姿を問う。

おそらくは、大多数の大人が、かつては似たような体験をしたことがあるのではないだろうかと思える事例が豊富に紹介される。子どもの自主性を尊重せず、口煩くなってしまう親、子どもの味方になった振りをする教師、「今どきの若者は…」と批判的なことしか言わない評論家。こんな大人達に、誰もが嫌な気持ちを持った経験があるのではないだろうか。しかし、時が経つにつれて、今度は自らが「嫌な大人」への階段を着実に上り始めているということはないだろうか。

本書に登場する子どもの批判は、あまりにも正論で、真っ当で、納得せざるを得ない。なぜ、直接会ったこともない友人のことを批判するのか。自分の誤りを認めようとしない教師はおかしい。今と昔の時代的な違いを無視して、現代の若者を批判するのは理にかなっていない。「日本を良くする」と言いながら、国会では喧嘩ばかりしている議員にはがっかりする。その他にも、周りに溢れる矛盾にメスを入れていく子どもには、頼もしささえ感じる。これが、「学力が低下」し、「すぐキレる」子どもの姿なのか。とてもそうは思えない。

人間は、昔の辛い体験や苦しかった経験などすぐに忘れてしまう。だから、大人になって改めて中学生・高校生の時代を振り返ると、「あの頃は何て気楽だったのだろう」と思ってしまうのだろう。そのときの悩み、苦しみなどは、すっかり頭から抜けてしまっている。少しでも、自分の昔の姿を思い出して、子どもに共感することができれば、子どもと大人の軋轢も小さくなるのではないかと思ってしまう。

最終章では、現在の子どもを取り巻く環境が複雑化し、子どもが日々人間関係に疲弊しながら生きている現状が述べられる。そして、子どもに模範を示すという大人の責務についても、語気を強めて語られる。若い世代のモラルが低下したと嘆く前に、大人が率先してやるべきことは山積している。

反対に、本書は、子どもにとっても読む価値がある。自分と同じような境遇に苦しむ仲間に共感できるかもしれないし、子どもについ文句を言ってしまう親や先生への理解も一歩深まるかもしれない。子どもと大人の橋渡しとしての役割も果たせる、類稀な本だ。

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# 『読むだけですっきりわかる国語読解力』
2010/03/23 08:25
読むだけですっきりわかる国語読解力 後藤武士 宝島文庫 2009年



一般に流布している国語問題に対する誤解を正し、解答に必要なテクニックを伝授すると同時に、そもそも文章を読むときに気を付けるべきことも解説し、読解力自体も伸ばそうという目標も掲げた本。

本書の大元は受験参考書。それだけに、入試問題が求める国語力や、入試問題の解法に関する記述必要である。しかし、解答の根拠を得るためには、そもそも論説文がどのように構成されているのか、文学的文章では登場人物の心情がどのようにして描写されるのか、などの知識を欠かすことはできない。そこで、本書はそのような基本的な事項にきちんと遡った丁寧な説明を付けている。抽象と具体、主観と客観など、どうしても読解に必要な概念をできるだけ噛み砕いた言葉で説明し、読者が理解できるよう努めている。

対象は、難関中学を受験する小学生向きである。それでも、実際の対象はもっと幅広く、読解力・解答力を身に付けたい者と言えるだろう。「国語には学年がない」と言われる。国語や読解に不安を抱えているのであれば、大学受験生、社会人であっても得るものは大きい。ベストセラーとなっている現代文参考書でも、苦手な人が本当に知りたいと思っている基礎の基礎に当たる部分は、意外と書かれていないことがある。本書は、そのような根本の部分で躓いていたり、いまいち納得のいかない思いをしている人にとっては、疑問を解決する糸口となるであろう。例えば、「どんなことか」という問いに対して、問題文を変形させて「~こと」という文末に変形させる手順について段階的に説明した解説は秀逸。また、どのようにして難しい問題ができあがっていくかについての解説も必見。

但し、本1冊を読んだだけですぐに身に付くのではないところが、読解の難しい点。知識として持っていることを、実際にできるようにするには、ひとつ壁を乗り越える必要がある。本書で漠然とでも国語問題に対する向き合い方を把握できたなら、いよいよ実践練習あるのみだ。

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# 『予習という病』
2010/01/13 21:45
予習という病 高木幹夫+日能研 講談社現代新書 2009年



自分が予想できる範囲のことにしか対応できず、未知の物、既存の枠組みでは捉えきれない物に遭遇すると、まったく対応できなくなってしまうことを、筆者は「予習病」と名付け、現代社会において憂慮すべき問題であるとする。では、その予防には、どんなことが有効なのか。現代の教育のあり方に問題意識を投げかけ、日能研における教育実践から、現代社会において求められる教育スタイルや社会の仕組みを提言する。

タイトルの割には、本書で扱っている内容は幅広い。学力を、身に付けた知識や計算力によってのみ測り、「学力低下」の懸念の下、総合的な学習の時間を批判するという社会情勢に対する反駁は頷ける。そして、生きていく上で問題解決力が必要な今、教育でもそれを重点課題としていくべきだという姿勢には納得がいく。
本書で提唱されている学習は、90年代から徐々に影響を増してきたconstructivismという思想に影響を受けているものだ。この考え方によると、知識は他者との交流の中で身に付くものである。そして、教科や科目といった枠組みに囚われず、幅広い知識を統合していく姿勢を重視する。ひとつの専門分野からでは解決できない問題が目白押しの現代社会において、大変注目されている教育である。

しかし、著者に日能研が含まれていることからも分かるように、日能研や私立中学の魅力をやや強調している印象を持たざるを得ない。私立学校贔屓の事情については、『亡国の中学受験』という本が批判している。実はこの2冊、出版社は異なるものの、形態は同じ新書であり、発売時期もほぼ同時。中学受験、受験産業、私立の教育実践、そこに通う生徒、公立学校の実態などに対する記述で好対照をなしている2冊を読み比べることで、多角的な視野を持てる事柄は多い。

最後に、「予習病」は、一見分かりやすく目を惹く単語だが、筆者はこの言葉をあまりに多くの問題に適用しすぎているように思える。その分、言葉の定義が曖昧になってしまっているのが問題。


■追記■
朝日新聞2010年1月31日の書評で本書が取り上げられました。

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