博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話 サイモン・ウィンチェスター 鈴木主税
訳 ハヤカワ文庫 2006年
英語の辞書においては、もはや絶対的な権威を持つと言っても過言ではないのが、OED(Oxford English Dictionary)。この辞書は、英語のすべての語について、いつ使われ始めたかという歴史的な側面と、どんな意味があるのかという言語的な側面を紹介すべく、実際に当時の書物に用いられていた文例を載せている、とんでもない手間のかかった代物である。当然、辞書の編纂には、膨大な時間と人手を要した。本書は、編纂過程において多大な貢献を果たした2人の人物、編纂者のジェームズ・マレーと、篤志協力者のW・C・マイナーに焦点を当て、辞典編纂の裏で起こった出来事を纏め上げたノンフィクションである。
恐るべき業績の背景には、まるで誰かに仕組まれたかのような必然が潜んでいるのだろうか。読後、そのようなことを考えてしまった。2人の出会いと、OEDの完成に至るまでの過程には、数々の偶然の積み重ねがある。
マイナーがOEDの作成に協力することになるきっかけは、けっして喜ばしいことではない。マイナーは、元は非常に優秀な家系に生まれ落ちた軍医である。ところが、南北戦争の経験からやがて精神を病み、殺人事件を犯し、精神病院行きを余儀なくされてしまう。ところが、マレーが出した広告を偶然目にしたマイナーは、類稀な知性とこだわりを発揮して、辞典編集の篤志協力者の中でトップレベルの貢献度を示すことになったのだ。指定された時代の書籍を読み、注目すべき語を見つけては、それをカードに書き出し、文例を正確に書き写すというのが、篤志協力者の仕事。それは、一見単純そうに見え、それでいて、「注目すべき」とは何かという、曖昧な問題も含んだ作業。マイナーは、まさに編纂者達の意図を汲んだ理想的なカードを作り、しかもそれを辞書編纂のペースに合わせて送るという偉業を成し遂げた。マレーが、謎の人物、マイナーの元を尋ねてからは、2人は親しい友人となった。この2人の友情物語も、非常に印象に残る。
物語は、マイナーの殺人事件に始まり、2人の生い立ち、辞書編纂の物語が描かれるにつれ、徐々に2人の人生が交わっていくという構成で、物語としても見事な出来栄え。また、奇跡の辞書が完成されるには、おそらく不可欠だったと思われる、マイナーの殺人事件の被害者となってしまったジョージ・メリットを、是非記憶に刻んでおいてもらいたいというあとがきからは、筆者の誠意が伝わってくる。40万もの言葉を収録した大辞典完成の裏にあった悲しい出来事が、物語を引き締める。
最後にある、豊﨑由美氏の解説も、秀逸。本書の魅力を余すことなく簡潔に纏めている。
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