ハマータウンの野郎ども ポール・ウィリス 熊沢誠・山田潤訳 ちくま学芸文庫 1996年
1970年代のイギリスの公立中等教育は、学業において優秀な生徒が通う学校と、いわゆる落ちこぼれが通う学校とに、しっかりと分離していた。特に、職業訓練を重視したセカンダリー・モダン・スクールに通う生徒の中でも、反学校的な文化を担う労働階級の者達は、「野郎ども」と呼ばれていた。彼らは学校に対して反抗的で、いわゆる「不良」である。この一見反社会的に思える野郎どもは、実は社会の底辺で働く手労働者に自ら進んでなることによって、むしろ資本制社会の構造を見事に支えている。このような逆接はなぜ起こるのか。インタビューによる記録を中心に据えた「生活誌」と、現象について考察する「分析」から成る、二部構成の文化批評。
筆者の分析の目は、非常に興味深い現象を浮かび上がらせる。社会で単純な手労働に就く者は、自分の労働が無価値であるように思いながらも、日々働いているという側面を持つ。そして、そのような労働者は、社会の仕組み上、必ず発生するし、必要でもある。では、手労働者になることを納得してもらうよう、社会が用意する方法は何か。1つ目は、学校社会を通した競争である。学校で真面目に勉強して良い成績を修めれば、良い職に就けるという原理だ。必ずしもそうはならない側面があるものの、これは概ね良好に機能する。学業成績が悪い生徒は、「努力不足だから仕方がない」ということで現実を甘受し、底辺の職へと進む。
2つ目が、反学校文化の担い手、野郎どもの生き方である。野郎どもは、学校文化に真っ向から対立し、ホワイトカラー対ブルーカラーという対立を相対化する。彼らは、社会については学校教師よりも自分達の方がよっぽどよく知っているという自信を掲げ、手労働に男らしさ、自分達にしかできないという誇りを見出していく。結果、反学校文化の先導者が、いつの間にか労働階級の地位を再生産し、社会に順応するまでに至ってしまうのだ。
このような分析・記述が妥当なものかは、専門家の判断を仰ぐとして、このような現象は現代の日本においてどんな意味を持つかについて考えるのは興味深い。例えば、学校教育を競争と選別の場とし、そこからこぼれ落ちた者を「努力不足」と評するという記述だ。現在、学歴社会が崩壊したなり、以前存続するなり、議論が交わされているとしても、近年急速に競争と選別の装置として機能し始めたのが、コミュニケーション能力や困難に立ち向かう力などである。これらの基準で自らの能力を測られ、職に就けない者は、「努力不足」ということで独り責任を背負い込むことになる。しかし、そもそも皆がやりたがるような職が限られているのだから、この結果は社会の根本的な仕組みから生じるものではないかと考えると、一筋縄ではいかない。
皆が求める限られた職を奪い合うという価値観を転覆させてみせるのが、野郎どもの文化だった。では、日本において、このような文化はあるのだろうか。漫画の世界では、90年代が終わりに近づくにつれ、不良漫画が消えていったということが指摘されている。その代わり、エヴァンゲリオンに代表されるような、個人が社会ではなく、自分の心と戦うという内向きな作品が増加していった。日本でパンクロックといっても、作品が訴えていることは思春期の恋愛であったりと、野郎どもの文化に通じるようなカウンターカルチャーの様相を呈した作品は、案外多くはない。日本で社会の底辺に押し込められている人々は、何を拠り所にして生きれば良いのか。そんなことを考えさせられる。
学校・社会・労働といったテーマについて考えるに当たって、様々な示唆を与えてくれる名著だ。
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