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# 『多元化する「能力」と日本社会 ハイパー・メリトクラシー化のなかで』
2010/04/17 12:05
多元化する「能力」と日本社会 ハイパー・メリトクラシー化のなかで 本田由紀 NTT出版 2005年



近代社会は、人々が生まれや身分に関係なく、自らの将来を掴み取っていく社会の実現を目指した。身分制から、能力主義(メリトクラシー)への変化であった。日本においては、能力を示す基準として大きな役割を担ったのが、学歴であった。学歴至上主義と批判されるまでに至るほど、就職、ひいては結婚など、学歴は社会的な評価が関わる場面において、強大な力を誇った。それでは、現代社会において、社会的な評価の基準たりえるものは何であろうか。筆者は、「コミュニケーション力」や、「自ら進んで物事に取り組む力」など、「○○力」と表現される、幾分曖昧な能力が、現在重要度を増していると考える。そのような能力を重要視する風潮を、かつてのメリトクラシーと対比させて、「ハイパー・メリトクラシー」と名付け、その実態に迫る。

社会学の手法を用いて、子どもの意識変化、母親の役割、企業の求める人材像など、様々な視点から「ハイパー・メリトクラシー」化が進む社会の実態について、報告していく。中でも興味深いのは、一見学歴が社会的な意義を失っているように思える世の中においても、基礎学力は人の能力を根底から支えるものとして、機能し続けているという見方だ。つまり、「ハイパー・メリトクラシー」は、旧来型の学歴社会に完全に取って代わるものではなく、旧来型の能力に、学力試験では計れないような、人間性が上乗せされた能力なのである。そして、そのような能力は、むしろこれまで以上に、生まれ持った要素に依存する度合いが強いのではないかと、筆者は危惧する。

例えば、母親の教育力。一昔前の教育ママとは異なり、子どもの潜在的な意欲、やる気を引き出し、うまく導いていくことが、現代の母親には求められている。さらに、コミュニケーション力を育むためには、母親との会話が非常に有効であるゆえに、子どものハイパー・メリトクラシー的な能力を高めるには、母親にも同様の力が求められるのだ。このような現象については、筆者の実証的な分析を待たずしても、「子どものやる気を引き出す」「子どもと新聞の内容について話す」といったキーワードが子育てや受験に関する本に氾濫している現状から、直感的に理解できる。

世の中のハイパー・メリトクラシー化は、もはや不可逆的と言えるかもしれない。八方塞のようにも見える社会を変化させる手段として、筆者は専門性の重視を掲げる。筆者は、日本社会がこれまで漠然とした能力(「基礎学力」「生きる力」など)を重視しすぎていて、個々人が何を目指してどう取り組んでいけば良いのかが明確にされてこなかったと批判する。その代替手段として考えられるのが、専門性の重視だという。そうすれば、自分の専門領域に合わせた形で、ハイパー・メリトクラシー的な能力を発揮していけば良い。さらに、その専門性に向かっていく中で、人々との関わりを通して、無理なくハイパー・メリトクラシー的な能力を身につけることも可能になるという。

私がふと思いついた成功例は、プロゴルファーの石川遼選手である。彼の人柄、コミュニケーション能力は、誰もが認めるところであろう。では、彼の人間性はどこで磨かれたかというと、紛れもなく、ゴルフという専門領域において、である。ゴルフの世界において、人との関わり方を学び、それが、本人の対人能力を高めるに至ったのである。

しかし、このように、専門性を高めるというだけで、どのくらいハイパー・メリトクラシー化した社会で生き延びる術を身につけられるのであろうか。例えば、医師という職業を挙げてみる。現在、医師になるに当たっても、高いコミュニケーション能力が求められている。すると、コミュニケーション能力は、専門性を高める過程に付随するのもではなく、専門性に含まれるべき要素になるのではないだろうか。筆者が指摘するように、様々な職業のサービス業化が進展する中、専門性とハイパー・メリトクラシー的な能力を別々のものとして切り離す方法がどこまで通用するのかは、重要な焦点となり得よう。

もうひとつの問題は、外国人労働者の問題である。現在、介護など人材が不足している職業以外でも、外国人労働者の進出が盛んになっている。ローソンが多くの外国人を経営を担う正社員として採用したことが話題になっている。インド人が、英語力と勤勉さを買われて採用されるケースも増加している。彼らは、確かに自国の事情に詳しいなどのある種の専門性ゆえに採用されていると考えることもできるが、一方で、「日本人には足りない」意欲や積極性を評価されて採用されている場合もある。日本国内での職の奪い合いが熾烈化する可能性も控えた中、ハイパー・メリトクラシーの問題をどのようにして解決していくのかは、ますます困難な課題となるだろう。
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