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# 『慶應の人脈力』
2010/07/28 15:10
慶應の人脈力 國貞文隆 朝日新書 2010年



私のこれまでの経験上、東京近辺で頭の良い人は東大や早稲田を受けるというのが、一般的なイメージなのではないかと思う。それに対して、慶應という名が浮かぶのは、それよりも後のような気がする。現に、世間一般には「早慶」という言い方が広まっていて、親しみの度合いなら、早稲田のほうが勝っているかもしれない。

しかし、一方で、慶應という言葉から発せられる、高貴、洗練、お金持ちといったイメージは、他の難関大学からはなかなか得られない。また、少なからぬ人々にとって、慶應とは憧れの場であり、必死になって目指す目標となっている。それは、どうしてなのか。一体、慶應の魅力とはどこにあるのか。本書はこのような疑問に立ち向かうべく、慶應義塾の歴史、福沢諭吉の思想、政財界との繋がり、慶應閥など、様々な視点から、慶應について分析していく。

ファミリービジネスの一大拠点として、大企業の二世、三世が集い、強力な人脈を作り上げていく過程は、まるで、卵が先か、鶏が先かと思わせるような、富裕層が富裕層を生み出していくサイクル。財閥系に対する強さも未だに健在。就職活動においても、他の学生から頭一つ抜きん出た社会人らしさは絶大な評価を得ている。結局のところ、どうしてここまで慶應は力があるのか。本書には、その答えが散りばめられているけれども、読めば読むほど謎も深まる。ただ1つ言えるのは、読後、称賛なり嫌悪感なり、慶應義塾に対する様々な感情が喚起されるであろうことだ。良い意味でも悪い意味でも、慶應は日本の実業界の中核を担ってきた。日本社会に脈々と生き続けてきた慶應の息吹が感じられる。
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# 『感情が経済を動かす 新しい経済学「ヒューマノミクス」の革命的挑戦 』
2010/07/06 10:21
感情が経済を動かす 新しい経済学「ヒューマノミクス」の革命的挑戦 ウヴェ・ジャン・ホイザー 柴田さとみ PHP研究所 2010年



かつての経済学が想定してきた、常に合理的な選択を行なう人間という像は、崩れつつある。本書では、時に感情に駆られ、時に非合理的な行動を取る人間を前提とした、行動経済学の理論を基に、経済のあり方を問う。

行動経済学に関する入門書はそれなりに出版されているけれども、本書が類書と決定的に異なる点は、行動経済学の知見をどのようにして国家の経済政策に活用していくかという視点に重点を置いていることだ。それゆえに、扱う対象は、幸福、税の問題など、経済学が扱うべく根本的な問題である。

幸福は、絶対的な指標ではなく、あくまで相対的な立ち位置から感じられるものであることがわかった。では、どんな政策によって、人々の幸福度を上げることができるか。人々が税を支払う条件について、行動経済学的な視点から分析することができた。では、どんな税制が敷かれれば、人々は満足できるのか。本書では、このような問題がじっくりと検討される。そして、行動経済学の成果を取り入れることによって、単なる「大きな政府」か「小さな政府」かという枠を越えた深い議論が可能になるという道筋を示してくれる。消費税議論が選挙戦での1つの焦点となっている昨今の日本において、本書の視点は非常に示唆に富んでいると言えるだろう。

人間は、常に合理的に動く存在などではない。かといって、常に一時の感情に支配されるほど愚かでもない。人間の性質、さらには土地の文化までもを見極めた絶妙な経済政策の実現こそ、現代の政治家の手腕が問われる領域かもしれない。

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# 『就活革命』
2010/06/14 16:34
就活革命 辻太一朗 NHK出版生活人新書 2010年



現在の日本の就職活動の状況を見ていると、何かがおかしい。そして、学生も、企業も、大学も、すべてが駄目な方向へ向かっているように見える。本書は、このような感覚の実態に迫り、就職活動の問題点を洗いざらいにする。最後に、問題点を打破するための解決策を提示する。

筆者はまず、学生、企業、大学それぞれの中にある問題点を主張する。まず、問題の元凶とするのが、学生の自己分析。下手に自己分析をしたところで、自分に陶酔する若者しかできない、学生は「やりたいこと」「できること」ばかりに執着して世界を狭めてしまうというのが筆者の主張。次に、優秀な人材を早く獲得しようとして企業が進める採用の早期化と、それに伴う学生の就職活動の長期化。最後に、企業からも学生からも軽視され、学問をする場として機能しなくなっているうえに、学生の就職指導に追われる大学。

それでは、どうすれば問題の解決が見えてくるのか。学生・企業・大学の三者が、それぞれ相互作用を起こしつつ、負のスパイラルに陥っているというのが、筆者の見方。さらに、冒頭で筆者は「学生は被害者」というコメントをしている。それならば、三者の問題点をまとめたうえで、大学と企業を中心に変革をしつつ、学生にも就職活動や勉学の意義を再確認してもらうという道筋が想定されるはずだ。

しかし、筆者の記述を細かく見ていくと、最も変革を求められているのは、学生、次に大学、最後に企業という構図が見えてくる。学生に対する要求は、「狭小な自己分析などに陥らず、何でもやってみるという気概を持て」「大学時代は勉学に励み、論理的思考と、知識を使って考える訓練を積め」というもの。大学に対しては、「しっかりと学生に勉強させ、厳正な単位認定システムを取り入れろ」「授業のシラバスを公開し、企業が評価する参考にできるようにしろ」。では、企業はというと、「現在の採用方法を見直し、優秀な学生をきちんと評価できるようにする」。一見、それなりに妥当に思えるが、企業が果たすべき責任など、微々たるものだ。

例えば、自分が希望した職種以外に就くことを嫌がることに対する批判。これは、そもそも学生の専門性を軽視し、「総合職」という曖昧な枠での採用を行い、「何でもやります。どこへでも行きます」と言わせる、日本の企業の体質と無縁ではない。日本の企業が採用の際に職種と本人の専門性を明確にして採用していないことが、欧米の企業と比べると特殊であるということについては、本ブログでも取り上げた、『多元化する「能力」と日本社会 ハイパー・メリトクラシー化のなかで』に詳しい記述がある。それから、大学教育を改革するということについても、問題がある。大学生に対する給付奨学金が充実していない日本において、学生が勉学に集中することは可能なのであろうか。下手すると、アルバイトが必要な学生を排除することになりはしないだろうか。それに対して、筆者が企業に求めていることは非常に少ない。現在の採用方法を批判的に検討するのも、それは企業が優秀な人材を逃すことを憂慮してという条件付きである。おまけに、面接で測れないことの評価には、大学での成績を利用するという、丸投げ状態。筆者の提案する大学4年生の秋に行う2度目の採用などは、既に行われていることである。しかも、採用活動の早期化問題については、学生が勉強することのメリットを大学が示すことが先という始末。

「勉強しろ」「社会人基礎力を身に付けろ」と学生の尻を叩き、意義のある教育をしろと、大学に迫る。それでいて、企業については批判的なコメントが少ない。現実路線を見出そうとすると、そのような結果になるのかもしれないのだが、しこりは残る。妥当な選択肢は、他にないのだろうか。

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# 『行動経済学 感情に揺れる経済心理』
2010/04/27 15:30
行動経済学 感情に揺れる経済心理 依田高典 中公新書 2010年



経済学は、元来、最大限合理的な選択を行い、誤ることのない人間を想定してきた。しかし、実際には、人間は誤る。後悔する。そして、感情に突き動かされる。このような完全無欠ではない人間を前提に据えて理論の構築を試みるのが、行動経済学である。本書は、人間が半分合理的で、半分非合理な存在であることを示す好例として、不確実性下の選択や、アディクションなどを取り上げ、行動経済学の基本的な考え方を紹介するとともに、その意義や問題点にも迫る。

現在、行動経済学は一種のブームになっている。人間は常に合理的な選択をするわけではない。人間臭さを取り入れた理論は、前提となる完璧な人間像に疑問を抱いた者にとっては、非常に受け入れやすいのではないだろうか。実際、NHKの「出社が楽しい経済学」という、非常にわかりやすく行動経済学の概念を伝えるテレビ番組も出てきている。

そのような番組を見ていると、数式などは一切登場しないため、ともすると行動経済学が気楽な学問であると思ってしまいがちだ。本書では、数式による説明が多く出てくる。根っこにあるのは同じ行動経済学であっても、見せ方は大きく異なる。一見とっつきやすいものでも、本格的に理解するには、壁を越える必要がある。

本書で取り上げる事項は、多岐に及ぶ。心理学でよく知られた現象に始まり、時間が関わってくる問題(今、100万円を受け取るか、1年後に110万円を受け取るかという選択に対し、どんな反応を見せるかなど)、不確実性下の選択(確実に100万円もらうか、50%の確率で250万円もらうかの、どちらを選択するかなど)、アディクションの問題(喫煙者、禁煙者、非喫煙者の考え方の違い、タバコはいくらにするのが妥当かなど)、ゲーム理論(囚人のジレンマなど)、進化心理学との関連。その一つ一つに、人間と経済の関係を理解するためのヒントがある。

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# 『多元化する「能力」と日本社会 ハイパー・メリトクラシー化のなかで』
2010/04/17 12:05
多元化する「能力」と日本社会 ハイパー・メリトクラシー化のなかで 本田由紀 NTT出版 2005年



近代社会は、人々が生まれや身分に関係なく、自らの将来を掴み取っていく社会の実現を目指した。身分制から、能力主義(メリトクラシー)への変化であった。日本においては、能力を示す基準として大きな役割を担ったのが、学歴であった。学歴至上主義と批判されるまでに至るほど、就職、ひいては結婚など、学歴は社会的な評価が関わる場面において、強大な力を誇った。それでは、現代社会において、社会的な評価の基準たりえるものは何であろうか。筆者は、「コミュニケーション力」や、「自ら進んで物事に取り組む力」など、「○○力」と表現される、幾分曖昧な能力が、現在重要度を増していると考える。そのような能力を重要視する風潮を、かつてのメリトクラシーと対比させて、「ハイパー・メリトクラシー」と名付け、その実態に迫る。

社会学の手法を用いて、子どもの意識変化、母親の役割、企業の求める人材像など、様々な視点から「ハイパー・メリトクラシー」化が進む社会の実態について、報告していく。中でも興味深いのは、一見学歴が社会的な意義を失っているように思える世の中においても、基礎学力は人の能力を根底から支えるものとして、機能し続けているという見方だ。つまり、「ハイパー・メリトクラシー」は、旧来型の学歴社会に完全に取って代わるものではなく、旧来型の能力に、学力試験では計れないような、人間性が上乗せされた能力なのである。そして、そのような能力は、むしろこれまで以上に、生まれ持った要素に依存する度合いが強いのではないかと、筆者は危惧する。

例えば、母親の教育力。一昔前の教育ママとは異なり、子どもの潜在的な意欲、やる気を引き出し、うまく導いていくことが、現代の母親には求められている。さらに、コミュニケーション力を育むためには、母親との会話が非常に有効であるゆえに、子どものハイパー・メリトクラシー的な能力を高めるには、母親にも同様の力が求められるのだ。このような現象については、筆者の実証的な分析を待たずしても、「子どものやる気を引き出す」「子どもと新聞の内容について話す」といったキーワードが子育てや受験に関する本に氾濫している現状から、直感的に理解できる。

世の中のハイパー・メリトクラシー化は、もはや不可逆的と言えるかもしれない。八方塞のようにも見える社会を変化させる手段として、筆者は専門性の重視を掲げる。筆者は、日本社会がこれまで漠然とした能力(「基礎学力」「生きる力」など)を重視しすぎていて、個々人が何を目指してどう取り組んでいけば良いのかが明確にされてこなかったと批判する。その代替手段として考えられるのが、専門性の重視だという。そうすれば、自分の専門領域に合わせた形で、ハイパー・メリトクラシー的な能力を発揮していけば良い。さらに、その専門性に向かっていく中で、人々との関わりを通して、無理なくハイパー・メリトクラシー的な能力を身につけることも可能になるという。

私がふと思いついた成功例は、プロゴルファーの石川遼選手である。彼の人柄、コミュニケーション能力は、誰もが認めるところであろう。では、彼の人間性はどこで磨かれたかというと、紛れもなく、ゴルフという専門領域において、である。ゴルフの世界において、人との関わり方を学び、それが、本人の対人能力を高めるに至ったのである。

しかし、このように、専門性を高めるというだけで、どのくらいハイパー・メリトクラシー化した社会で生き延びる術を身につけられるのであろうか。例えば、医師という職業を挙げてみる。現在、医師になるに当たっても、高いコミュニケーション能力が求められている。すると、コミュニケーション能力は、専門性を高める過程に付随するのもではなく、専門性に含まれるべき要素になるのではないだろうか。筆者が指摘するように、様々な職業のサービス業化が進展する中、専門性とハイパー・メリトクラシー的な能力を別々のものとして切り離す方法がどこまで通用するのかは、重要な焦点となり得よう。

もうひとつの問題は、外国人労働者の問題である。現在、介護など人材が不足している職業以外でも、外国人労働者の進出が盛んになっている。ローソンが多くの外国人を経営を担う正社員として採用したことが話題になっている。インド人が、英語力と勤勉さを買われて採用されるケースも増加している。彼らは、確かに自国の事情に詳しいなどのある種の専門性ゆえに採用されていると考えることもできるが、一方で、「日本人には足りない」意欲や積極性を評価されて採用されている場合もある。日本国内での職の奪い合いが熾烈化する可能性も控えた中、ハイパー・メリトクラシーの問題をどのようにして解決していくのかは、ますます困難な課題となるだろう。

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# 『就活って何だ 人事部長から学生へ』
2010/03/27 15:15
就活って何だ 人事部長から学生へ 森健 文春新書 2009年



現在の就職活動において、企業が学生に臨むこととは何だろうか。この疑問を、日本を代表する人気企業15社の人事部長に問うてみたのが、本書。そこから浮かび上がってくる、学生に求められる素質とはいかに。どのような学生を採用したか、あるいは、どのような学生が応募してきたのかについて、時には具体的な事例にまで踏み込んで、各企業の人事部長が2010年新卒採用の実態について語る。

筆者のまとめでは、これらの企業に採用される学生に共通している特性は、困難に負けず、チャレンジ精神に富み、リーダーシップを発揮しつつも、周りの意見に耳を傾けられる協調性やコミュニケーション能力に長けた人材であるという点。何とも、学生は大きなことを期待されているものだ。しかし、実際に各人事部長が採用した例として出す学生は、そのような才能に溢れているように思えた。行動力を発揮し、問題意識を持ってこれまでの活動に取り組み、リーダーシップも発揮してきたというタイプの学生だ。よく、「特別な経験はなくても良い。あっても必ずしもプラスになるわけではない」という文句を聞くことがある。これはこれで、真実を語った言葉であろう。人事担当者が口を揃えて言うことは、「どうして取り組み、経験から何を学んだかが大事」という視点。一方で、やはり稀有な体験が効果を持つことがあるのは否めない。これでは、「普通の」学生が怖気づいてしまうかもしれない。これを見かねた筆者が最終章で、普通の学生でも、自分と真剣に向き合い、就職活動を行うことで、突破口を見出せると言う。

本書の売りは、「人事部長が本音で語った」ということである。確かに、非常に具体的な事例とともに、採用の実態が述べられることもある。とはいっても、出版物になる以上、これだけが採用の現実と考えるのは早計であろう。各企業、「こんな優秀な学生さんが、他社ならず我が社に入社を決めました」と言いたくなってしまう気持ちは山々であろう。バイアスを意識しながら、読んでいかなければ、情報に踊らされてしまう。本書を通じて、各企業の人事担当者が繰り返し述べているのは、「マニュアルに惑わされるな」ということ。それなのに、この本で読んだことに必要以上に囚われ、自分を見失ってしまっては、何とも皮肉な結果だ。

現在は、本書に登場した人事担当者が就職活動をしていた頃と比べて、就職活動の実態が大きく変化した。人によっては、昔の自分は、現在だったら採用されないだろうと、語っている。これだけ巨大化・複雑化した就職活動において、学生が途方に暮れてしまうのは、もっともなことであろう。本書を読んだところで、結局、「自分の頭を使って考える」「積極的に社会人と会う」くらいしか、この試練を乗り越える方法を思いつけないほど、先が見えない世の中なのだろうか。

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# 『非識字社会アメリカ』
2010/02/04 09:40
非識字社会アメリカ ジョナサン・コゾル 脇浜義明 明石書店 1997年



国民の約3分の1が、まったく文字が読めなかったり、作業に必要な説明書が読めなかったりする。子どもに本を読んでやれないことに、やりきれない思いを抱く母親がいる。そんな現状にもかかわらず、政府は識字教育には無関心で、そのための予算は減らされていく一方である・・・これは、現在のいわゆる発展途上国の現状ではない。1980年代のアメリカの姿なのである。本書は、高度な文明の象徴であるアメリカ合衆国が抱える深刻な問題に迫る。学校からドロップアウトせざるを得なかった人々や、識字教室を運営する人々の悲痛な叫びから、アメリカ社会の持つべき方向性を問う。

識字問題が、いかに様々な問題を内包しているかが、よく伝わってくる本。識字能力において1つの基準になるのが、「機能的識字」である。これは、単に文字が読めるに留まらず、日常の生活や仕事において最低限必要な識字能力のことを指す。その基準に照らし合わせると、少なくとも1980年の時点においては、アメリカ国民の3分の1が「非識字」に分類されるのだという。本書の前半では、このような人々の苦労や悲しみが豊富な事例に基づいて紹介される。何とか仕事にありつけ、朝はコーヒーを飲みながら朝刊を読むという、何とも優雅な生活を満喫しているように見える男性。実は、この男性は文字が読めないことを隠して生活しているのである。だから、朝刊を読んでいるふりをする必要があるのだ。また、5歳の子どもに、自分が文字を読めないことを知られ、悲しみに胸を打ち砕かれる女性もいる。これらの人々の中には、何らかの理由で学校を辞めなければならなかった者が多く存在する。人種という、アメリカならではの問題もある。

そして、筆者が抱える、当時のアメリカ社会への怒りが最も露わに、そして雄弁に語られるのが、本書の後半である。筆者は、「機能的識字」の概念に疑問を呈する。筆者は、真の識字力とは、与えられた最低限のものをこなすためのものではなく、社会に溢れる悪意に満ちた言説を疑い、批判的精神をもって読解する力であると主張する。だから、仕事に最低限支障が出ない読解力があれば構わないという考え方に対し、懐疑的な姿勢を持つ。識字は、弱いものが支配的な勢力に抵抗する術になり得るのだ。

「機能的識字」を超えた識字を、誰もが身に付けることができる社会とはどうすれば実現するのか。筆者は、狭い区分に囚われた学問界の統合、批判的な思考を養う教育など、いくつか解決策を示す。しかし、実現に向けての努力はまだ始まったばかりである。

ちなみに、近年は別の視点から「機能的識字」の概念に疑問を投げかける動きもある。識字が大切で、社会参加のための必須条件ということを過度に主張することで、ディスレクシアや、視覚障害を持つ人々、在日外国人など、識字にハンデをもつ人々には、社会参加が許されないという暗黙の差別に繋がる可能性があるからだ。そう考えると、識字問題は奥が深い、人間の本質にかかわる問題であることがわかる。

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# 『爆笑問題のニッポンの教養 我働く ゆえに幸あり?』
2009/10/10 17:33
爆笑問題のニッポンの教養 我働く ゆえに幸あり? 爆笑問題+本田由紀 講談社 2008年




テレビ番組で行った討論を収録したもの。
内容は、若者の貧困問題や、それに対する政府・社会の役割など。

この本で本田先生と太田さんが語る内容は、まさに現在社会についての議論の縮図であるように思う。若者の低賃金の実態、ニートの問題についての指摘があると、すかさず、そこまで問題ないだろうという論が出てくる。

ニートは本人の努力不足によるものなのだろうか。この問いに対して、本田先生は、ニートの発生はこれまでの日本社会の仕組みが成り立たなくなった時点で必然的に生じる現象であると言う。では、この責任はどこにあるのか?若者を「被害者」と言いきってしまうことに、問題はないのか。

このような問題は、非常にセンシティブである。また、日本の中で意見が大きく分断されている問題でもある。
結局、どのような環境が、社会にとって望ましいのか。社会の問題だけでなく、自分の意識をどう持つべきかについても考えさせられる1冊。

番組の放送記録もご覧ください。

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