2025/02/02 14:51
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2010/06/14 16:34
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就活革命 辻太一朗 NHK出版生活人新書 2010年 現在の日本の就職活動の状況を見ていると、何かがおかしい。そして、学生も、企業も、大学も、すべてが駄目な方向へ向かっているように見える。本書は、このような感覚の実態に迫り、就職活動の問題点を洗いざらいにする。最後に、問題点を打破するための解決策を提示する。 筆者はまず、学生、企業、大学それぞれの中にある問題点を主張する。まず、問題の元凶とするのが、学生の自己分析。下手に自己分析をしたところで、自分に陶酔する若者しかできない、学生は「やりたいこと」「できること」ばかりに執着して世界を狭めてしまうというのが筆者の主張。次に、優秀な人材を早く獲得しようとして企業が進める採用の早期化と、それに伴う学生の就職活動の長期化。最後に、企業からも学生からも軽視され、学問をする場として機能しなくなっているうえに、学生の就職指導に追われる大学。 それでは、どうすれば問題の解決が見えてくるのか。学生・企業・大学の三者が、それぞれ相互作用を起こしつつ、負のスパイラルに陥っているというのが、筆者の見方。さらに、冒頭で筆者は「学生は被害者」というコメントをしている。それならば、三者の問題点をまとめたうえで、大学と企業を中心に変革をしつつ、学生にも就職活動や勉学の意義を再確認してもらうという道筋が想定されるはずだ。 しかし、筆者の記述を細かく見ていくと、最も変革を求められているのは、学生、次に大学、最後に企業という構図が見えてくる。学生に対する要求は、「狭小な自己分析などに陥らず、何でもやってみるという気概を持て」「大学時代は勉学に励み、論理的思考と、知識を使って考える訓練を積め」というもの。大学に対しては、「しっかりと学生に勉強させ、厳正な単位認定システムを取り入れろ」「授業のシラバスを公開し、企業が評価する参考にできるようにしろ」。では、企業はというと、「現在の採用方法を見直し、優秀な学生をきちんと評価できるようにする」。一見、それなりに妥当に思えるが、企業が果たすべき責任など、微々たるものだ。 例えば、自分が希望した職種以外に就くことを嫌がることに対する批判。これは、そもそも学生の専門性を軽視し、「総合職」という曖昧な枠での採用を行い、「何でもやります。どこへでも行きます」と言わせる、日本の企業の体質と無縁ではない。日本の企業が採用の際に職種と本人の専門性を明確にして採用していないことが、欧米の企業と比べると特殊であるということについては、本ブログでも取り上げた、『多元化する「能力」と日本社会 ハイパー・メリトクラシー化のなかで』に詳しい記述がある。それから、大学教育を改革するということについても、問題がある。大学生に対する給付奨学金が充実していない日本において、学生が勉学に集中することは可能なのであろうか。下手すると、アルバイトが必要な学生を排除することになりはしないだろうか。それに対して、筆者が企業に求めていることは非常に少ない。現在の採用方法を批判的に検討するのも、それは企業が優秀な人材を逃すことを憂慮してという条件付きである。おまけに、面接で測れないことの評価には、大学での成績を利用するという、丸投げ状態。筆者の提案する大学4年生の秋に行う2度目の採用などは、既に行われていることである。しかも、採用活動の早期化問題については、学生が勉強することのメリットを大学が示すことが先という始末。 「勉強しろ」「社会人基礎力を身に付けろ」と学生の尻を叩き、意義のある教育をしろと、大学に迫る。それでいて、企業については批判的なコメントが少ない。現実路線を見出そうとすると、そのような結果になるのかもしれないのだが、しこりは残る。妥当な選択肢は、他にないのだろうか。 |
2010/04/27 15:30
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行動経済学 感情に揺れる経済心理 依田高典 中公新書 2010年 経済学は、元来、最大限合理的な選択を行い、誤ることのない人間を想定してきた。しかし、実際には、人間は誤る。後悔する。そして、感情に突き動かされる。このような完全無欠ではない人間を前提に据えて理論の構築を試みるのが、行動経済学である。本書は、人間が半分合理的で、半分非合理な存在であることを示す好例として、不確実性下の選択や、アディクションなどを取り上げ、行動経済学の基本的な考え方を紹介するとともに、その意義や問題点にも迫る。 現在、行動経済学は一種のブームになっている。人間は常に合理的な選択をするわけではない。人間臭さを取り入れた理論は、前提となる完璧な人間像に疑問を抱いた者にとっては、非常に受け入れやすいのではないだろうか。実際、NHKの「出社が楽しい経済学」という、非常にわかりやすく行動経済学の概念を伝えるテレビ番組も出てきている。 そのような番組を見ていると、数式などは一切登場しないため、ともすると行動経済学が気楽な学問であると思ってしまいがちだ。本書では、数式による説明が多く出てくる。根っこにあるのは同じ行動経済学であっても、見せ方は大きく異なる。一見とっつきやすいものでも、本格的に理解するには、壁を越える必要がある。 本書で取り上げる事項は、多岐に及ぶ。心理学でよく知られた現象に始まり、時間が関わってくる問題(今、100万円を受け取るか、1年後に110万円を受け取るかという選択に対し、どんな反応を見せるかなど)、不確実性下の選択(確実に100万円もらうか、50%の確率で250万円もらうかの、どちらを選択するかなど)、アディクションの問題(喫煙者、禁煙者、非喫煙者の考え方の違い、タバコはいくらにするのが妥当かなど)、ゲーム理論(囚人のジレンマなど)、進化心理学との関連。その一つ一つに、人間と経済の関係を理解するためのヒントがある。 |
2010/02/04 09:40
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非識字社会アメリカ ジョナサン・コゾル 脇浜義明訳 明石書店 1997年 国民の約3分の1が、まったく文字が読めなかったり、作業に必要な説明書が読めなかったりする。子どもに本を読んでやれないことに、やりきれない思いを抱く母親がいる。そんな現状にもかかわらず、政府は識字教育には無関心で、そのための予算は減らされていく一方である・・・これは、現在のいわゆる発展途上国の現状ではない。1980年代のアメリカの姿なのである。本書は、高度な文明の象徴であるアメリカ合衆国が抱える深刻な問題に迫る。学校からドロップアウトせざるを得なかった人々や、識字教室を運営する人々の悲痛な叫びから、アメリカ社会の持つべき方向性を問う。 識字問題が、いかに様々な問題を内包しているかが、よく伝わってくる本。識字能力において1つの基準になるのが、「機能的識字」である。これは、単に文字が読めるに留まらず、日常の生活や仕事において最低限必要な識字能力のことを指す。その基準に照らし合わせると、少なくとも1980年の時点においては、アメリカ国民の3分の1が「非識字」に分類されるのだという。本書の前半では、このような人々の苦労や悲しみが豊富な事例に基づいて紹介される。何とか仕事にありつけ、朝はコーヒーを飲みながら朝刊を読むという、何とも優雅な生活を満喫しているように見える男性。実は、この男性は文字が読めないことを隠して生活しているのである。だから、朝刊を読んでいるふりをする必要があるのだ。また、5歳の子どもに、自分が文字を読めないことを知られ、悲しみに胸を打ち砕かれる女性もいる。これらの人々の中には、何らかの理由で学校を辞めなければならなかった者が多く存在する。人種という、アメリカならではの問題もある。 そして、筆者が抱える、当時のアメリカ社会への怒りが最も露わに、そして雄弁に語られるのが、本書の後半である。筆者は、「機能的識字」の概念に疑問を呈する。筆者は、真の識字力とは、与えられた最低限のものをこなすためのものではなく、社会に溢れる悪意に満ちた言説を疑い、批判的精神をもって読解する力であると主張する。だから、仕事に最低限支障が出ない読解力があれば構わないという考え方に対し、懐疑的な姿勢を持つ。識字は、弱いものが支配的な勢力に抵抗する術になり得るのだ。 「機能的識字」を超えた識字を、誰もが身に付けることができる社会とはどうすれば実現するのか。筆者は、狭い区分に囚われた学問界の統合、批判的な思考を養う教育など、いくつか解決策を示す。しかし、実現に向けての努力はまだ始まったばかりである。 ちなみに、近年は別の視点から「機能的識字」の概念に疑問を投げかける動きもある。識字が大切で、社会参加のための必須条件ということを過度に主張することで、ディスレクシアや、視覚障害を持つ人々、在日外国人など、識字にハンデをもつ人々には、社会参加が許されないという暗黙の差別に繋がる可能性があるからだ。そう考えると、識字問題は奥が深い、人間の本質にかかわる問題であることがわかる。 |
2009/10/10 17:33
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爆笑問題のニッポンの教養 我働く ゆえに幸あり? 爆笑問題+本田由紀 講談社 2008年 テレビ番組で行った討論を収録したもの。 内容は、若者の貧困問題や、それに対する政府・社会の役割など。 この本で本田先生と太田さんが語る内容は、まさに現在社会についての議論の縮図であるように思う。若者の低賃金の実態、ニートの問題についての指摘があると、すかさず、そこまで問題ないだろうという論が出てくる。 ニートは本人の努力不足によるものなのだろうか。この問いに対して、本田先生は、ニートの発生はこれまでの日本社会の仕組みが成り立たなくなった時点で必然的に生じる現象であると言う。では、この責任はどこにあるのか?若者を「被害者」と言いきってしまうことに、問題はないのか。 このような問題は、非常にセンシティブである。また、日本の中で意見が大きく分断されている問題でもある。 結局、どのような環境が、社会にとって望ましいのか。社会の問題だけでなく、自分の意識をどう持つべきかについても考えさせられる1冊。 番組の放送記録もご覧ください。 |
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