2025/04/22 20:49
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2009/11/25 13:09
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大事なことはみ~んなドラえもんに教わった 久保田正己 飛鳥新社 1997年 「ドラえもん校長」として有名になった小学校の校長先生(当時)が、教育という観点からドラえもんを見つめた本。のび太とドラえもん、両親、友人、担任の先生との関係をヒントに、教育のあるべき姿を探る。 筆者が、本当によくドラえもんを読み込んでいるというのが伝わってくる。ドラえもんのファンとしても、納得のいく内容。教育者、特に小学校長という立場から見たドラえもん像というのは、ドラえもんに対する新鮮な見方を提供してくれる。のび太の両親の、子どもとの接し方については、良い例としても悪い例としても取り上げられる。本書で出てきた例を見ていると、ドラえもんにおいて、のび太の両親は、時に冷静で、時に感情的で、本当に人間らしさに溢れていると思ってしまう。改めて、藤子・F・不二夫の人間描写のセンスを感じることとなった。 また、さすが教育者という視点を感じて面白かったのが、ジャイアンと出来杉君との関係の分析である。筆者が指摘するように、確かにこの2人がともにいる風景を見かける機会は少ない。それに対する筆者の分析がなかなか興味深い。 筆者は、随所で現在の学校教育についても論考を行う。学校が勉強中心の場になりすぎてはいないだろうか。のび太のように、たとえ勉強ができなくても思いやりのある子どもが育つ土壌はあるのだろうか。筆者は勉強中心で回る学校を批判する。それはそれで、とても大事なことではないかと思う。しかし、学校は勉強するところだと割り切ってしまうからこそ、子どもが学校の成績が悪くても極度に落ち込む必要はないと言える部分もある。大切なのは、子どもを一元的に評価するのではなく、様々な場面で子どもが見せる個性を十分に尊重して見つめていく姿勢ではないだろうか。もちろん、1997年という、本書が刊行された時代は、就職氷河期と呼ばれた時代である。日本の社会や教育において何かが問題であるという意識は、非常に高かった時代であろう。そのような時代に団塊世代の1人が教育に対して一石を投じたという事実は、価値あることではないかと思う。 ●ドラえもん校長・人生第二幕 筆者のHP。 ドラえもん校長として、教育者として、多岐にわたる内容がまとめられています。 PR |
2009/11/24 20:59
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The Melancholy of Haruhi Suzumiya Nagaru Tanigawa (translated by MX Media LLC) Little, Brown and Company 2009 This is the original novel of one of the most famous Japanese animes. Kyon is a first-year boy student of an ordinary public high school. Indeed, “Kyon” is a nickname and no one is seen to call him in his real name. On the first day of his high school life, Kyon meets a very cute but extraordinary girl in his class room. Her name is Haruhi Suzumiya. What he hears first from her is "I have no interest in ordinary humans. If there are any aliens, time travelers, sliders or espers here, come join me." Kyon happens to be the only one that Haruhi opens her mind to. One day she comes up with an idea that she will make a club to find out aliens, time travelers, sliders and espers. Then, she gathers three more people for the club: Yuki Nagato, a girl belonging to literature club, Mikuru Asahina, a second-year girl student, and Itsuki Koizumi, a mysterious transfer student. This is when S.O.S Brigade is born. Later, Kyon comes to know that these three are really an alien, a time traveler, and an esper. Each of the three people has their own view of Haruhi Suzumiya, but they agree that she has an ability to change the world as she likes. Now an ordinary boy, Kyon begins to encounter unbelievable phenomena. Probably almost all the people have an experience to be bored with a daily life and hope for an extraordinary world. However, as they grow older, they realize that they have to be satisfied with what they have and can have in reality. Kyon is not an exception. On the other hand, this is not the case with Haruhi. She never gives up and tries to enjoy herself. She reminds us of what we have forgotten. One of the attractions of the novel is a number of interesting similes. This sometimes renders the writing a little redundant on the one hand but fascinating on the other hand. Another attraction is the way in which the relationship between Kyon and Haruhi is described. They never directly express their affection toward each other. They know they are something special, more than just a classmate. However, Haruhi does not know what to do. Kyon is never aware of his feeling toward Haruhi. Since this is a novel, Kyon’s monologue is more amply expressed than in the anime. What he thinks of Haruhi is grasped better. Also depicted more in detail is a picture of Haruhi through the eyes of Kyon. She shows various emotions and expressions. Vivid figure of Haruhi emerges out of the text. Also, easier to understand are the explanation of kind of sci-fi organizations of Nagato and Koizumi and the concept of time travel. Incidentally there are two English versions of The Melancholy of Haruhi Suzumiya. The cover picture and four pages of color pictures of the Japanese counterpart are faithfully reproduced in the hardcover version. I recommend that you buy the hardcover version although it is a little bit more expensive than the paperback one. |
2009/11/06 20:50
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語り得ぬもの:村上春樹の女性表象 渡辺みえこ 御茶の水書房 2009年 村上春樹の2作品、『ノルウェイの森』『スプートニクの恋人』には、それぞれレズビアンの女性が登場する。本書は、その2作品の発表された時代の思想についても言及しつつ、社会において暗黙の下で抹殺されてきた女性の性やレズビアンという視点で、作品を分析する。 現代のみを知っているだけでは、文学作品の女性表象を深く理解することはできないと強く感じさせる内容。筆者は、古来からの女性差別、70年代、80年代のフェミニズム運動の動きも述べたうえで、村上春樹の2作品におけるレズビアンの描写を分析していく。 特に興味深いのが、かつて女性の同性愛は最も禁忌するものとみなされ、徹底的に弾圧されてきたという点である。そのような出来事は、実際の事件だけでなく、文学作品にも描かれている。筆者は、豊富な事例を提供しつつ、論を展開する。 また、女性が性の喜びを享受するということに対する、男性中心社会からの抑圧という視点も考えさせられる。筆者は、ブライダル・シーツなど、処女性の神聖視や、それを示すことを強制され、恐怖に怯える女性について、歴史的な資料や文学作品から分析する。 さて、現在はレズビアンに対する見方がどうなっているのであろうか?現在、ポルノグラフィにおいて、レズビアンが一分野を確立していると言えるかもしれない。また、今年の10月からアニメが放送されている『ささめきこと』は、女性の同性愛を扱った物語である。さらに、一迅社の『コミック百合姫』など、女性同士の恋愛を扱った作品のみを掲載する漫画雑誌も登場している。しかし、これらは、どれも男性の視点を抜きにして語ることができない。なぜなら、ポルノグラフィはもちろんのこと、これらの漫画も、(少なくとも形式的には)男性向けに発行されているものだからである。筆者の言うように、女性によって語られる女性の同性愛というものが、もっとポピュラーになっても良いように思う。もっとも、私が女性向けの漫画の世界をあまり知らないというのはあるが。女性については、逆にBLという視点も、検討の余地があろう。 |
2009/10/28 21:02
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中学受験の失敗学 瀬川松子 光文社新書 2008年 教育産業の広告に溢れる、華々しい「第一志望校合格」という言葉。ところが、その裏には、決して語られない無残な結末を迎えた事例が多く存在する。特に、塾や家庭教師に多額の投資を行いながらも、志望校全滅という悲惨な事態だって起こりえる。しかし、子どもの実力を適切に把握し、教育に際限なく出費をするという構えをなくせば、最悪の事態は回避できる。では、どうして最悪の事態は起こってしまうのか? 本書では、このような事態に陥ってしまう過程には、往々にして「ツカレ親」がいるという。「ツカレ親」とは、中学受験に取り「憑かれ」、心身ともに「疲れ」てしまっている親のことを指す、筆者独自のネーミングである。「ツカレ親」は、決して良い結果をもたらさない。本書では、悪夢を回避するべく方法を模索する。 非常に面白い点を突いてくる本だと思う。筆者は豊富な家庭教師経験があり、そこで出会った事例から、中学受験に必要な心構えを提示していく。1つ目のコツは、第一志望にこだわりすぎず、子どもの実力を見て柔軟に志望校を判断すること。場合によっては地元の公立も視野に入れ、無理させすぎないこと。それには、無駄なプライドは捨て、子どもの学力や希望と真摯に向き合うこと。言うは易く、行うは難しといったところか。2つ目は、ただ利益のみを追求する悪質な業者を見抜くこと。具体的な例とともに、チェックリストまで付いているのが頼もしい。 それだけで終わらないのが本書の魅力である。最後に、そもそもなぜ「ツカレ親」が登場しなくてはならない状況があるのかという点に、筆者は言及する。「良い大学」「良い会社」という一元的な基準のみによって人を評価する社会、公立中学の惨状を誇張し、中学受験をしなければ良い教育が受けられないかのような物言い。悲劇を生む親ばかりを非難せず、社会の風潮も問題視する視点が大切だと筆者は説く。 受験というものは、中学受験にしろ、大学受験にしろ、自分(あるいは自分の子ども)と向き合うことが求められる、ある意味辛い場面である。人は初めて世の中における自分の立ち位置を知り、理想の自分との隔たりに悩み、もがく時期である。せっかくの貴重な経験を、世間の勝手な言い分に流されて台無しにしては、もったいない。素直に自分(の子ども)と向き合い、世界に向かって果敢に羽ばたく(羽ばたかせる)気概を持てというメッセージが感じられる。 筆者は、自身のブログで、精力的に情報を発信している。また、2009年の11月には、本書の続編と言えそうな本が発売される。 |
2009/10/20 13:23
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理科系のための英文作法 杉原厚吉 中公新書 1994年 どのようにして文法的に正しい1文を書くのかについては、至るところで紹介されている。しかし、個々の文をどう繋げば、誤解のない文章を書くことができるのかについての説明は、あまり見ることがない。往々にして、「多くの文章に接することで身に付けていくべき」という、感覚的な精神論が横行している。それ以外の方法はないのか?これが、本書の掲げるテーマである。筆者は、コンピュータによる自然言語処理の技術を利用し、読みやすい文、誤解のない文の書き方について解説する。 全体的に優れている本である。しかし、最も感心する内容は、階層構造に気を付けて書くという内容である。文章には、階層がある。例えば、トピックセンテンスとそれを支持する具体例、名詞の修飾などが、それにあたる。それをうまく表現しないと、誤解を招く文章になってしまうことがある。では、どうすれば良いのか?本書では、語句の定義の仕方、接続詞・副詞の使い方など、豊富な事例とともに、確実に意味の伝わる英文の書き方が述べられる。このような方法は、文系の作文、さらには日本語の作文にも適用できる また、本書で挙げられている仮説(文の接続関係を明示した方が文章がわかりやすくなるなど)は、自然言語処理・言語心理学のトピックとしても面白い。英語教育の世界では比較的学習者任せにされている分野の重要性を指摘しただけでなく、客観的な視点を取り入れた手法を紹介したという点は、大きな功績と言える。「筋が通った文」とは、結局どんな文のことなのか。この疑問に対する答えは、本書のあらゆる箇所に見つけられる。 本書については、英語ニュースでも取り上げられている。かなり詳しい書評なので、お薦め。 |
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