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# 『GOSICK Ⅲ ―ゴシック・青い薔薇の下で―』
2010/01/10 14:20
GOSICK Ⅲ ―ゴシック・青い薔薇の下で― 桜庭一樹 富士見ミステリー文庫 2004年



両対戦間のヨーロッパ、架空の小国ソヴュール王国を舞台に、極東からの留学生、九城一弥と、聖マルグリット学園の捕らわれの姫、ヴィクトリカが繰り広げるミステリーの第3弾。今回は、一弥が出掛けた先の首都ソヴレムのデパートで起こった奇怪な事件に対し、一弥が謎の解明を目指す。ところが、肝心のヴィクトリカは風邪引きで学園内の自室に籠もりきり。一弥は電話でヴィクトリカの助けを借りながら、事件解決に向かって奔走する。

本編は、デパートから人が消えてしまうといった噂の流れる首都ソヴレムに一弥が独りで向かう話。ヴィクトリカは風邪で寝込んでいるため、普段の犯人によるMonologueに代わって、ヴィクトリカの様子がBedroomという挿話で描かれる。謎解き以外にも、前巻で存在の確認された謎の人物、ブライアン・ロスコーの姿が出たり、ブロワ警部の髪型の由来がわかったりと、本作の世界に広がりをもたらす話もあるのが魅力。そしてもうひとつ、一弥とヴィクトリカのすれ違いが最もよく描かれているのが特徴。もちろん、恋人同士のすれ違いのような重大なものとは言えないまでも、2人のやり取りは面白い。風邪にうなされるヴィクトリカが一弥からの電話に期待して出ると、一弥は事件の謎についてばかり話し、ヴィクトリカを怒らせる。また、ヴィクトリカは一弥からの電話が嬉しいのに、一弥の話の内容に腹を立て、冷たい態度をとってしまう。真面目で優しく、しかし鈍感な一弥を傍から見ている教師セシルの気持ちに共感できる。
相変わらず、1924年のヨーロッパを舞台にしつつ、現代社会に対する問題を投げかけるような内容もある。今回は、科学が進歩するにつれて、かえって人間は科学では説明できないような、わからない領域を求めるということ。まさに、現代の過剰な心理学、脳科学人気、そしてスピリチュアル信仰に警鐘を鳴らすような教訓であろう。
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# 『GOSICK Ⅱ ―ゴシック・その罪は名もなき―』
2010/01/03 10:46
GOSICK Ⅱ ―ゴシック・その罪は名もなき― 桜庭一樹 富士見ミステリー文庫 2004年/角川文庫 2009年



舞台は1924年のヨーロッパ、架空の小国ソヴュール王国。その王国の領土内、アルプス山脈沿いに、聖マルグリット学園があった。学園の図書館で、東方からの留学生、九城一弥は少女ヴィクトリカと出会う。彼女は、退屈しのぎに謎を解くのが好きであった。一弥がヴィクトリカに振り回され、共に冒険し、謎を解き明かすというミステリーの第2弾。今回は、ソヴュールの領土内にある名もなき村が舞台。ヴィクトリカの出生の謎とも関わる事件が起こる。果たして事件の真相とは・・・

一弥とヴィクトリカの掛け合いが魅力的なのが、本シリーズの特徴。それは、本書でも存分に展開される。本当は一弥のことを大事に思いながらも、素直に接することのできないヴィクトリカと、そんな彼女に対して時にがっかりし、時に怒りを感じつつも、やはり気になる一弥は、事件に巻き込まれていくことで、互いの絆を深めていく。物語の最後でヴィクトリカが一弥にある言葉をかけるシーンが微笑ましい。
ミステリーの内容としては、事件の謎はもちろんのこと、その他の複線も、物語の最後に近付くにつれ、確実に回収されていく。エンターテインメントとしての様相を完璧に呈している。
本シリーズの特徴は、様々な語り手によって展開される物語である。第三者の視点から語られることが最も多いけれども、時に一弥の視点から語られることもある。そして、各章の間には、monologueという挿話があり、これらは犯人の視点で述べられる。

『GOSICKⅡ』における重要テーマとしては、少数民族の迫害と、権威によって定められた自分の運命にどう抗うかという問題がある。謎解きだけでない要素が含まれているのも、本書の魅力。

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# 『歴史は「べき乗則」で動く』
2009/12/28 15:26
歴史は「べき乗則」で動く マーク・ブキャナン 水谷淳訳 ハヤカワ文庫 2009年



大地震と小さな地震には、その原因に本質的な違いがあるのだろうか。大地震は予測できるのだろうか。これらの質問に対する答えは、いずれも「ノー」である。大地震には、典型的な周期など存在しないし、大きな地震も小さな地震も、原因は同じであるのだ。では、このような現象にはまったく規則が見当たらないのだろうか。実は、地震の規模とそれが起こる確率を2次元平面に表現すると、綺麗なグラフが現れる。例えば、地震の規模が2倍になると、その地震が起こる確率は4分の1になるというデータがある。このような規則を「べき乗則」と呼ぶ。この法則は、地震に限らず、一見何の規則もないように思える現象を説明する力を持っている。山火事の広がり具合、生物種の大量絶滅、株式の暴落などは、べき乗則の例である。では、人類の歴史もべき乗則で説明がつくのだろうか。本書は、べき乗則を解説した後、人間社会に存在する現象にべき乗則を適用する道を探る。

非常に興味深い本。まったく規則性がないように見える現象に対して、規則を見つけ出す可能性を提供するのが、べき乗則。科学的な事象を読み取るという視点からも面白く読むことができるが、物の見方という視点からも楽しめる。人間は、大事件の裏には何かしらの特別な原因が潜んでいると思いがちである。しかし、実際は特別な原因などなく、小さな出来事の積み重なりが大きな結果につながったに過ぎないということもあり得るのだ。物事を冷静に見極めるとはどのようなことなのか、考えさせられる。巻末の解説も良い。本編の内容を補うように、格差社会の例など、日常に溢れるべき乗則について語られている。

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# 『亡国の中学受験』
2009/12/19 12:14
亡国の中学受験 瀬川松子 光文社新書 2009年



『中学受験の失敗学』の続編に当たる本。
「公立の学校は、いじめ、学級崩壊、教師の指導不足など、問題が山積している。その点、私立学校は充実した教育環境を提供することができる。豊かな人間性を育むとともに、高い進学実績を誇る私立学校は…」世間の中学受験を勧める宣伝文句には、このような言い分が溢れているように思える。しかし、本当にそうなのだろうか?本書は、中学受験界、そして私立中高一貫校の実態に精通した筆者による、夢のような学校、私立中高一貫校の現実に迫ったものである。

本書で、筆者は予め自分の立場はやや私立の価値を貶める方向に偏っていることを明言している。それは、これまで私立学校の良さを強調する物言いが多数を占める中、負の側面を語るメディアが非常に少ないという筆者の実感による。筆者は、中学受験がここまで加熱するのは、それに関わる利益団体が徒に公立学校への不信を煽っている側面があるからだとする。有名な上位の私立学校の中には、成績不良の生徒に対して圧力をかけようという雰囲気が存在することがある。進学校化を狙う偏差値の低い私立では、上位の一握りしか着いて行きようのない難問をシャワーのように浴びせ、できないのは個人の責任と居直っているところがある。いじめはどんな学校でも発生する可能性はあり、私立独特の特徴である、塾や家庭教師業者との癒着という問題もある。それでも、そのような実態はあまり表沙汰にならない。それは、私立学校特有の隠蔽体質があるのとも関係している。

本書は本書で、逆に私立学校への不安を煽っているとして、物議を醸すことはあろう。しかし、それでも本書の役割は重要であろう。少しでも、中学受験の負の側面を知ることで、受験生やその両親などの中学受験に関わる人々が冷静に私立中学を選ぶようになってくれば、世の中が少しは変化するかもしれない。
また、本書の問題は、中学受験に留まらない。そもそもいじめが発生する日本社会の問題、私立への助成も含めた私立学校のあり方の問題、生徒のことを本気で考えるほど、採算が取れなくなる塾業界の実態など、一筋縄ではいかない難問が提示される。
このような問題に向き合うことこそ、日本の教育、ひいては社会について考えることなのであろう。

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# 『フリーターの心理学 ― 大卒者のキャリア自立』
2009/12/10 13:06
フリーターの心理学 ― 大卒者のキャリア自立 白井利明・下村英雄・川﨑友嗣・若松養亮・安達智子 世界思想社 2009年



フリーターについて、心理学の立場から迫った本。正社員とフリーターでは、キャリア意識や時間的展望、価値観に違いがあるのだろうか。本書では、8500人もの大卒者を対象とした調査を行い、フリーターの実態と今後の課題について考える。

本書を読んで感じるのは、フリーターと一口に言っても、その実態は実に多様であり、複雑であるということだ。大卒のフリーターのみを対象としたとはいえ、男女、既婚未婚、子どもの有無、卒業した大学の難易度など、様々な要因が影響し、本人のキャリア観や現在の生き方に影響している。それぞれの調査で、一定の傾向が現れることはあっても、むしろフリーターの多様性を示す結果ともなっている。

興味深かったのは、キャリア・コンストラクション理論という考え方である。この理論では、人間は一様なキャリア発達を見せるのではなく、自らの置かれた文脈に影響を受けながらキャリアを形成していくという考え方である。労働市場の流動化や多様化が進む中、個人個人が歩む道は、ある1つの規範によっては決められなくなっている。社会と個人のダイナミックな作用に焦点を当てた見方がますます重要になるだろう。

本書の対象は大卒者である。しかし、社会において問題となっているフリーターの中には、低学歴の層が少なからず存在する。そして、彼らこそ、本当に正規雇用への道が閉ざされ、未来が見えない状態にあるのではないだろうか。中卒や高卒のフリーターについても、本書の理論は当てはまるのか。また、それに関連して、経歴の異なったものに対して、支援は同じで良いのだろうか。フリーターの実態把握は、今後も重要な課題として取り上げられるべきであろう。

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# 『ドロップ』
2009/12/08 16:12
ドロップ 品川ヒロシ リトルモア 2006年



信濃川ヒロシは、小学校時代は優秀な成績を修め、全寮制の私立中学へ進学する。しかし、親元を離れたことによって生活は怠惰になり、学校の勉強はサボっていた。高校受験をしたいという口実を繕い、ヒロシは地元の公立中学への転入を決める。転校してすぐ、ヒロシはその学校では名の知れた不良に呼び出された。そこで根性焼きを見せたヒロシは、達也、森木、山崎ら不良の仲間に入り、中学校生活を送ることになる。ヒロシは持ち前のしゃべりで周りを笑わせる役を担い、喧嘩はそれほど強くなくとも、仲間との関係を維持し続けた。高校に入学するも、中学校の頃と変わらぬ素行を見せ、退学になる。兄のように慕っていたヒデ君の死をきっかけに、地元の不良仲間と別れることを決める。文体は、三人称でありながら、主人公ヒロシの心情を時折混ぜながら展開するという形式になっている。

読んでいて思うことは、不良をやるのにも、並外れたパワーが必要であるということである。憧れの不良となったヒロシは、必死になって不良の道を歩もうとするが、どこかその世界にどっぷり浸かることができない。食うか食われるか、すなわち、いじめるかいじめられるかの二択のみが存在する世界に飛び込んだヒロシは、どこか自分の矛盾を感じながら、食う側になることを決め、周りの仲間に流されつつ、日々を過ごしていた。けれども、親への反抗から、親の前では弱い自分を見せないように、暴言を吐く。一方、元不良というヒデ君や、暴走族入りを決めた赤城は、非常に礼儀正しい一面を持ち、自分の将来に対する考え方も、思いの外真面目だ。ヒロシはいつしか、不良としての体裁を保つことに精一杯になり、自分の将来について真面目に考えることから逃げ出していた。それを悟ったヒロシが、少し前に進もうとしたところで締めくくられるストーリーは、青春ものとして感動的である。
とはいっても、物語の中で、ヒロシは最後まで母親に対する謝罪と感謝の気持ちも持つには至らなかった。少し遅れた思春期の反抗期を迎えたヒロシにとって、母親の存在をストレートに受け入れることはできなかった。そこには、まだまだ幼いヒロシの心情が滲み出る。

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# 『世界カワイイ革命』
2009/12/07 10:36
世界カワイイ革命 櫻井孝昌 PHP新書 2009年



今や、日本語の「かわいい」は、"KAWAII"の形でもって、世界に通用する言葉へと変化した。日本のファッション誌を読み、ゴスロリや制服ファッションについて研究し、原宿に行くことを夢見る海外の少女たちが、急増しているという。本書は、そのような現状を海外の現地で行った取材を通して伝えるとともに、今後日本が、どのような戦略で「カワイイ」文化と向き合っていくべきかの方針を示す。

筆者は、外務省のアニメ文化外交に関する有識者会議の委員である。ヨーロッパやタイでの取材に基づき、日本のファッションがいかに世界で熱狂的に受け入れられているかを、これでもかという豊富な事例で示す。フランスやイタリアで日本のポップカルチャーに関するイベントを開けば、何万人もの人が集う。ゴスロリや制服ファッションを身に纏う海外の少女は、日本人に近づこうと努力する。しかも、このような現象は、日本人が意識しない間に、勝手に広がって行った現象なのであるという。日本のソフトパワーもここまで来たのかという驚きを隠せない。

意外なのが、海外では、漫画やアニメの世界とファッションとの結びつきが非常に強いということである。すなわち、日本の秋葉原と原宿の距離は、海外の人々にとってはそう遠いものではないというのだ。フランスやイタリアで日本のポップカルチャーに関するイベントを開けば、何万人もの人が集う。そこでは、漫画やアニメに関するコーナーとファッション関連のブースが平然と並ぶ。日本の感覚からすると、非常に珍しい光景ではないだろうか。

これほどまでに熱狂的な様を見せるカワイイ事情だが、それに対して日本人は、積極的に対応できていない。例えば、原宿などに店を構えるブランド店は、規模が小さく、海外での展開に対する負担が大きすぎず、踏み出せないのだという。このような現状を克服すべく、筆者は官の力を使いつつ、ファッションビルごと海外展開することを提案する。他にも、現地事情に通じた人間の存在は大きくなるだろう。

他にも、現地事情と言語に通じた人間の存在は大きくなるだろう。現在、外国語が使える日本人は、結構いるにもかかわらず、その才能を持て余している人材がいるのも現状であろう。一方、アパレルブランドは、海外向けの通信販売用に、外国語表記のHPをやっとこさ作成しているといった現状である。このような需給バランスのズレを考えると、何とも歯がゆくなる。本書が、多くの人のアイデアを結集するきっかけになったら、今後カワイイ業界の勢力がとんでもなく拡大するかもしれない。

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# 『シュレディンガーの猫は元気か』
2009/12/02 21:47
シュレディンガーの猫は元気か 橋元淳一郎 ハヤカワ文庫 1994年



著者の独断と偏見に基づいた視点で選ばれた、科学誌ScienceとNatureの論文の論文のトピックを中心に、科学について縦横無尽に語った本。選考の基準は、「面白いかどうか」のみ!

啓蒙書とも、科学を気取っただけの本とも一線を画した、科学系読み物という表現が適切と思われる本。筆者は、教科書に載せられた内容を魚の日乾し、ScienceやNatureの論文を鮮魚と喩え、科学の面白さを伝えてくれる。そのため、中には事実として確定していない事柄や、教育的とは言い難いテーマもあり、真面目な内容に飽きてしまったり、興味が持てない読者へのサービスも充実している。トピックは非常に幅広く、自分が少しは予備知識を持っている内容についてはそれほど苦労しなかったのに対して、予備知識のない内容については、いささか苦労した。しかも、本書が発売されたのは、今から15年程前。もっと科学の知識を仕入れていかなければという反省を促された。時が経過した今、本書に記述された事項は、さらに解明されていったのだろうか。現在の動向への興味を刺激された。

科学そのものの内容が本筋であるが、最終章では社会と科学の関係ということで、研究者についてのデータや、ノーベル賞の裏について述べた記事までも扱われている点が憎い。本当に、科学について自由自在に語っている雰囲気のある本だと感心してしまう。

本書を読むと、ScienceやNatureに惹かれ、読んでみようという気にさえなってしまう。実際は、専門用語の壁を越えなければならないが。それでも、少し自分の興味があるところからでも読んでみるかと思える。本書最後のトピックによると、日本人はアメリカ人よりも医学や技術に関する科学的知識に乏しいらしい。啓蒙書を意識したわけではないと言いつつ、筆者は、最終的にはきちんと教育的な視点も入れながら話を締めくくっているではないか。

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# 『音に色が見える世界 「共感覚」とは何か』
2009/12/01 12:55
音に色が見える世界 「共感覚」とは何か 岩崎純一 PHP新書 2009年



五感が完全に分断されていないゆえに、ひとつの刺激に対して様々な感覚器官が反応するのが、共感覚。例えば、本書のタイトルにあるように、ある音を聞くと、それに対応する色が見えるなど。本書は、共感覚者である筆者が、自らの経験を基に共感覚について語り、さらに、共感覚者から見た日本文化について語る本である。

本書は、全体の半分弱が共感覚という現象についての記述、残りがそれを受けての現代日本文化論となっている。筆者は、五感を分断する考え方は、近代西洋において急速に台頭した思想であり、人間本来の感覚とはかけ離れたものであると主張する。筆者によれば、子どもの多くは共感覚者であり、西洋文明でさえ、かつては共感覚的な文化が存在したのだという。もちろんのこと、明治の近代化を迎える前の日本文化においても、共感覚は一般的なものであったという。筆者は、日本の古典文学に精通しているゆえに、共感覚だからこそ理解できる、短歌・古語の深い意味を豊富な事例で解説していく。また、日本の色彩語と西洋の色彩語の比較も試みる。それらの中には、なるほどと思うことも多い。

筆者は、これらの例に基づき、西洋文明の考え方を前提にした共感覚研究は、実り多いものにはならないと警鐘を鳴らす。それは、近代西洋の常識でもって語られる研究では、人間の感覚を本質的には追求できないからである。その根拠は、まさに筆者の存在と筆者の人生そのものなのである。西洋中心的に動いている学問体系に対して、一石を投じる文章がここにある。

人間本来の性質について述べる文脈であっても、「大和民族」や「日本人古来の感覚」という言葉が並んでいるのは、若干の抵抗を感じるが、西洋の思想を無批判に受け入れてしまう傾向に対する批判は、しっかりと受け止めるべきであろう。そして、筆者が口を酸っぱくして語るように、自文化の理解を深めていく姿勢は本当に大切なことであろう。

また、筆者は共感覚ゆえに、学校の勉強での苦労も絶えなかった。共感覚的な理解の仕方と、周りの人間の理解の仕方に、質的な差があったからである。そのような苦労話を聞くと、世の中の少しでも多くの人が、共感覚に対して、単なる不思議現象としての理解ではなく、きちんとした理解を持って欲しいと思ってしまう。もちろん、自分も含めて。

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# 『言語発達ってみんな同じ? 言語獲得の多様性を考える』
2009/11/30 10:03
言語発達ってみんな同じ? 言語獲得の多様性を考える C.M.ショアー 佃一郎監訳 岩田光児・岩田まな 学苑社 2009年



一般的に、言語発達は、一語だけを発話する段階から、徐々に単語数を増やし、最終的には文の形式に到達すると考えられている。その考え方が主流であるゆえに、言語発達の指標は、名詞をどれだけ知っているかという観点に絞られやすい。しかし、実際、言語発達はそれほど単純には語れない。本書では、もうひとつの言語発達のパターンについても触れ、言語発達の個人差に迫る。

言語発達には、様々な要因が関係していて、個人差を生むのだということがわかる。特に、名詞を並べて発話するタイプだけでなく、典型的な形式を真似して覚えようとするタイプもいるというのは興味深い。思えば、第二言語の習得においても、単語の並べ替えによって何とか意味を伝えようとするタイプと、幅広く使える典型表現を少し改変して多くの状況に適用しようというタイプがある。それと似たように考えればよいのだろうか。

しかし、言語発達の個人差に関する諸相は、それほど単純には語れないとするのが、本書の立場。子どもによって、おおまかには2つのタイプがあるとはいえ、状況や学習内容によってはひとりの子どもが両方のタイプをうまく取り入れるケースもあるという。また、たとえ遺伝的にはまったく同じといえる一卵性双生児であっても、言語発達の過程は同一とは到底言えない現実があるそうだ。カオス理論に従えば、ほんの少し初期値の違いがあるだけで、まったく予想もつかない結果が生まれることも考えられるという。

原書は1995年発行と、やや古い本ではあるが、訳者が言っているように、そこで言われていることには古さは感じられない。現在、最新の理論では、言語発達の個人差がどのように説明されているのかについての興味もそそられる。

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