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# 『私の男』
2010/05/18 21:17
私の男 桜庭一樹 文春文庫 2010年



24歳の腐野花の養父は、16歳年上の男、腐野淳悟。めでたく結婚することになった花は、父親と離れてしまうことに不安を覚える。父娘の関係というよりは、年の離れた恋人のように見える2人の秘密とは。父と娘の15年に亘る関係を描いた作品。第138回直木賞受賞作。

物語は現在から徐々に過去へと遡っていく。その過程で、愛に飢えた2人の禁断の関係が紐解かれていく。生々しくも、どこか空虚な悲しさも感じられる物語。父と娘の物語であり、謎解きでもある。合計4人の視点から描かれた断片が、やがて1つの絵を作り上げる。

なぜ、「お父さん」や「淳悟」ではなく、「私の男」なのか。一体淳悟は何を考えているのか。「家族」というものがわからずに出会った2人にとって、2人の禁断の関係は必然だったのか。それとも、他に方法はなかったのか。お互い堕ちていくことを自覚しつつも、互いを求め合う2人の未来はどうなるのか。この辺りが読者としての検討課題か。

物語の主役である「腐野花」というネーミングセンスは、作者を広く世に知らしめることになった作品である『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の悲劇のヒロイン「海野藻屑」を彷彿とさせる。以前の作品を知る人は、そんなところで楽しむことができるかもしれない。
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# 『イチローvs松井秀喜 相容れぬ2人の生き様』
2010/05/11 16:11
イチローvs松井秀喜 相容れぬ2人の生き様 古内義明 小学館101新書 2010年



共にメジャーリーグを代表する日本人選手である、イチローと松井秀喜。メディアへの対応に見られるように、2人は対照的な面を見せることが多い。本書は、メディアとの対応のみならず、プレイへの考え方、父親との関係や、食事に至るまで、様々な面から両者を対比させ、違いを浮き彫りにする。

なかなか面白いテーマだと思ったので、購入。思えば、2人は野球のみならず、生き方の面においても対照的であると思わせる部分が多々ある。おそらく、よく言われるところは、メディアへの対応と、個人の記録に対する考え方の違いであろう。

松井秀喜は、メディアに対して本当に真摯な対応をする。全打席凡退でも、3安打でも、不調でも好調でも、感情を露わにはせず、必ずメディアからの質問に応える。そして、その模様は日本のニュース番組でも放送される。それに対して、イチローは、メディアを前にひねくれ発言をすることも多く、時には子どものようにはしゃぐ姿も見せる。イチローのコメント力については、以前、斎藤孝氏がテレビ番組で絶賛していた。

個人記録に対する考え方も正反対だ。イチローはメジャーリーグに進出後も前人未到の領域までに踏み込む実力を発揮し、自らが所属する弱小チームの中で飛び抜けた活躍を見せる。一方、フォアボールが少ないことが批判されるように、チームの勝ち負けよりも個人の哲学を貫くことを重視していると思われても仕方がないようなプレイスタイルだ。反対に、松井秀喜は、チームの勝利ということを何よりも大切にする。先日、日米通算1500打点を達成した時でさえ、ホームランで自分がホームを踏む以外はすべて仲間のお陰とし、大喜びする様子はない(もちろん、松井の言っていることは正論ではあるが)。

本書が触れている領域は、さらに広い。親子関係、食事(好き嫌いからこだわりまで)、ファッション(私服からユニフォームの着方まで)、所属するチーム(大都市の常勝チームか、地方の弱小チームか)に至るまで、2人を対比させる。笑ってしまうのは、影響を受けた漫画の違い。イチローは『キャプテン』、松井は『ドカベン』なのだそうだ。徹底して両雄の違いにこだわり、これでもかと話題を提供する姿勢には、ある種の感嘆すら覚える。

これだけ違いがあっても、両者は結果的にファンを楽しませているという点では同じだと思う。それでも、本書は、書き出しと締めくくりで、時代はどちらを真のヒーローとして選ぶか、あなたならどちらを選ぶか、ということを一貫して問いかけてくる。一方がいるから、もう一方が引き立つということもある。どちらかとは言わず、両方が対照的であること自体を楽しんでいきたいという回答では、不十分だろうか。

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# 『大人はウザい!』
2010/04/29 15:01
大人はウザい! 山脇由貴子 ちくまプリマー新書 2010年



子どもが発する「ウザい」という言葉には、様々な意味が含まれている。怒り、落胆、失望… どんなときに「ウザい」が現れるのか。具体的な事例によって検討すると、実はこの言葉は、大人に対する重要なメッセージを子どもなりの言い方で発しているのだということがわかる。本書は、子ども達にとっての代表的な大人、親、教師、評論家、街行く大人に対して子どもが「ウザい」と思った瞬間を集め、大人が子どもと向き合っていく姿勢、大人のあるべき姿を問う。

おそらくは、大多数の大人が、かつては似たような体験をしたことがあるのではないだろうかと思える事例が豊富に紹介される。子どもの自主性を尊重せず、口煩くなってしまう親、子どもの味方になった振りをする教師、「今どきの若者は…」と批判的なことしか言わない評論家。こんな大人達に、誰もが嫌な気持ちを持った経験があるのではないだろうか。しかし、時が経つにつれて、今度は自らが「嫌な大人」への階段を着実に上り始めているということはないだろうか。

本書に登場する子どもの批判は、あまりにも正論で、真っ当で、納得せざるを得ない。なぜ、直接会ったこともない友人のことを批判するのか。自分の誤りを認めようとしない教師はおかしい。今と昔の時代的な違いを無視して、現代の若者を批判するのは理にかなっていない。「日本を良くする」と言いながら、国会では喧嘩ばかりしている議員にはがっかりする。その他にも、周りに溢れる矛盾にメスを入れていく子どもには、頼もしささえ感じる。これが、「学力が低下」し、「すぐキレる」子どもの姿なのか。とてもそうは思えない。

人間は、昔の辛い体験や苦しかった経験などすぐに忘れてしまう。だから、大人になって改めて中学生・高校生の時代を振り返ると、「あの頃は何て気楽だったのだろう」と思ってしまうのだろう。そのときの悩み、苦しみなどは、すっかり頭から抜けてしまっている。少しでも、自分の昔の姿を思い出して、子どもに共感することができれば、子どもと大人の軋轢も小さくなるのではないかと思ってしまう。

最終章では、現在の子どもを取り巻く環境が複雑化し、子どもが日々人間関係に疲弊しながら生きている現状が述べられる。そして、子どもに模範を示すという大人の責務についても、語気を強めて語られる。若い世代のモラルが低下したと嘆く前に、大人が率先してやるべきことは山積している。

反対に、本書は、子どもにとっても読む価値がある。自分と同じような境遇に苦しむ仲間に共感できるかもしれないし、子どもについ文句を言ってしまう親や先生への理解も一歩深まるかもしれない。子どもと大人の橋渡しとしての役割も果たせる、類稀な本だ。

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# 『行動経済学 感情に揺れる経済心理』
2010/04/27 15:30
行動経済学 感情に揺れる経済心理 依田高典 中公新書 2010年



経済学は、元来、最大限合理的な選択を行い、誤ることのない人間を想定してきた。しかし、実際には、人間は誤る。後悔する。そして、感情に突き動かされる。このような完全無欠ではない人間を前提に据えて理論の構築を試みるのが、行動経済学である。本書は、人間が半分合理的で、半分非合理な存在であることを示す好例として、不確実性下の選択や、アディクションなどを取り上げ、行動経済学の基本的な考え方を紹介するとともに、その意義や問題点にも迫る。

現在、行動経済学は一種のブームになっている。人間は常に合理的な選択をするわけではない。人間臭さを取り入れた理論は、前提となる完璧な人間像に疑問を抱いた者にとっては、非常に受け入れやすいのではないだろうか。実際、NHKの「出社が楽しい経済学」という、非常にわかりやすく行動経済学の概念を伝えるテレビ番組も出てきている。

そのような番組を見ていると、数式などは一切登場しないため、ともすると行動経済学が気楽な学問であると思ってしまいがちだ。本書では、数式による説明が多く出てくる。根っこにあるのは同じ行動経済学であっても、見せ方は大きく異なる。一見とっつきやすいものでも、本格的に理解するには、壁を越える必要がある。

本書で取り上げる事項は、多岐に及ぶ。心理学でよく知られた現象に始まり、時間が関わってくる問題(今、100万円を受け取るか、1年後に110万円を受け取るかという選択に対し、どんな反応を見せるかなど)、不確実性下の選択(確実に100万円もらうか、50%の確率で250万円もらうかの、どちらを選択するかなど)、アディクションの問題(喫煙者、禁煙者、非喫煙者の考え方の違い、タバコはいくらにするのが妥当かなど)、ゲーム理論(囚人のジレンマなど)、進化心理学との関連。その一つ一つに、人間と経済の関係を理解するためのヒントがある。

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# 『考えよ! なぜ日本人はリスクを冒さないのか?』
2010/04/18 19:12
考えよ! なぜ日本人はリスクを冒さないのか? イビチャ・オシム 角川oneテーマ21



ワールドカップ南アフリカ大会開催まで、あと60日となった。現在のサッカー日本代表に求められるものとは。そして、1次予選突破への心構えとは。前監督が、提言を行なう。

ワールドカップが近付く中、サッカー本の出版が相次いでいる。そのような状況下で、前監督の言葉が持つ力は、どのようなものだろう。おそらく、本書に書かれいてるメッセージは、「考えて走る」ことと、「日本の独自性を意識する」ことに収斂される。

本書で盛んに繰り返されるのが、「コレクティブ」という言葉だ。これは、サッカーがいかにチームワークを重視したスポーツであるかを体現する。組織的な守備を行い、パスコースを埋める努力がなければいけない。攻撃においては、相手を消耗させるよう考えてパスを回し、自ら走る。これこそがサッカーの醍醐味であると主張される。「考えて走る」ことの大切さがよくわかる。

本書の2番目のテーマは、外から見た日本を意識することだ。日本では当たり前だと思っていたことが、世界では違っていることがわかる。日本が世界の標準と異なる点を意識することで、改善点の発見にも結び付くし、日本の強みに気付くこともある。最も目から鱗だったのが、高校サッカーに関するコメント。海外ではクラブチームがユースを持ち、若手の育成を一様に担っているのに対し、日本は学校の部活動が若手育成に大きな貢献をしている。これは、日本にとっては当たり前のことでも、海外から見れば極めて特殊な現象であるらしい。そしてまた、オシム氏によれば、高校サッカーは若手の育成、人材の発掘の場として、非常に良く機能しているという。「1億2千万人の人間がいながら、サッカーができて速く走れる男を見つけることができないなんてことがなぜ起こりうるのだ」(p. 99)など、ヨーロッパの小国の出身である筆者だからこその発想も興味深い。

繰り返し述べられるのは、自分を信頼することの大切さ。だから、現在の日本代表に対するあからさまな批判は全く為されない。提案も非常に婉曲的だ。本書を読み納得することが、筆者の本望ではないだろう。本書を叩き台にし、議論することこそ、筆者の意図するところだ。筆者は、選手に「考えて走る」ことを要求するのと同じくらい、読者に「考えて話す」ことを訴えかけている。

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# 『多元化する「能力」と日本社会 ハイパー・メリトクラシー化のなかで』
2010/04/17 12:05
多元化する「能力」と日本社会 ハイパー・メリトクラシー化のなかで 本田由紀 NTT出版 2005年



近代社会は、人々が生まれや身分に関係なく、自らの将来を掴み取っていく社会の実現を目指した。身分制から、能力主義(メリトクラシー)への変化であった。日本においては、能力を示す基準として大きな役割を担ったのが、学歴であった。学歴至上主義と批判されるまでに至るほど、就職、ひいては結婚など、学歴は社会的な評価が関わる場面において、強大な力を誇った。それでは、現代社会において、社会的な評価の基準たりえるものは何であろうか。筆者は、「コミュニケーション力」や、「自ら進んで物事に取り組む力」など、「○○力」と表現される、幾分曖昧な能力が、現在重要度を増していると考える。そのような能力を重要視する風潮を、かつてのメリトクラシーと対比させて、「ハイパー・メリトクラシー」と名付け、その実態に迫る。

社会学の手法を用いて、子どもの意識変化、母親の役割、企業の求める人材像など、様々な視点から「ハイパー・メリトクラシー」化が進む社会の実態について、報告していく。中でも興味深いのは、一見学歴が社会的な意義を失っているように思える世の中においても、基礎学力は人の能力を根底から支えるものとして、機能し続けているという見方だ。つまり、「ハイパー・メリトクラシー」は、旧来型の学歴社会に完全に取って代わるものではなく、旧来型の能力に、学力試験では計れないような、人間性が上乗せされた能力なのである。そして、そのような能力は、むしろこれまで以上に、生まれ持った要素に依存する度合いが強いのではないかと、筆者は危惧する。

例えば、母親の教育力。一昔前の教育ママとは異なり、子どもの潜在的な意欲、やる気を引き出し、うまく導いていくことが、現代の母親には求められている。さらに、コミュニケーション力を育むためには、母親との会話が非常に有効であるゆえに、子どものハイパー・メリトクラシー的な能力を高めるには、母親にも同様の力が求められるのだ。このような現象については、筆者の実証的な分析を待たずしても、「子どものやる気を引き出す」「子どもと新聞の内容について話す」といったキーワードが子育てや受験に関する本に氾濫している現状から、直感的に理解できる。

世の中のハイパー・メリトクラシー化は、もはや不可逆的と言えるかもしれない。八方塞のようにも見える社会を変化させる手段として、筆者は専門性の重視を掲げる。筆者は、日本社会がこれまで漠然とした能力(「基礎学力」「生きる力」など)を重視しすぎていて、個々人が何を目指してどう取り組んでいけば良いのかが明確にされてこなかったと批判する。その代替手段として考えられるのが、専門性の重視だという。そうすれば、自分の専門領域に合わせた形で、ハイパー・メリトクラシー的な能力を発揮していけば良い。さらに、その専門性に向かっていく中で、人々との関わりを通して、無理なくハイパー・メリトクラシー的な能力を身につけることも可能になるという。

私がふと思いついた成功例は、プロゴルファーの石川遼選手である。彼の人柄、コミュニケーション能力は、誰もが認めるところであろう。では、彼の人間性はどこで磨かれたかというと、紛れもなく、ゴルフという専門領域において、である。ゴルフの世界において、人との関わり方を学び、それが、本人の対人能力を高めるに至ったのである。

しかし、このように、専門性を高めるというだけで、どのくらいハイパー・メリトクラシー化した社会で生き延びる術を身につけられるのであろうか。例えば、医師という職業を挙げてみる。現在、医師になるに当たっても、高いコミュニケーション能力が求められている。すると、コミュニケーション能力は、専門性を高める過程に付随するのもではなく、専門性に含まれるべき要素になるのではないだろうか。筆者が指摘するように、様々な職業のサービス業化が進展する中、専門性とハイパー・メリトクラシー的な能力を別々のものとして切り離す方法がどこまで通用するのかは、重要な焦点となり得よう。

もうひとつの問題は、外国人労働者の問題である。現在、介護など人材が不足している職業以外でも、外国人労働者の進出が盛んになっている。ローソンが多くの外国人を経営を担う正社員として採用したことが話題になっている。インド人が、英語力と勤勉さを買われて採用されるケースも増加している。彼らは、確かに自国の事情に詳しいなどのある種の専門性ゆえに採用されていると考えることもできるが、一方で、「日本人には足りない」意欲や積極性を評価されて採用されている場合もある。日本国内での職の奪い合いが熾烈化する可能性も控えた中、ハイパー・メリトクラシーの問題をどのようにして解決していくのかは、ますます困難な課題となるだろう。

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# 『GOSICK Ⅳ ―ゴシック・愚者を代弁せよ―』
2010/04/04 14:20
GOSICK Ⅳ ―ゴシック・愚者を代弁せよ― 桜庭一樹 富士見ミステリー文庫 2005年



1924年のヨーロッパ、架空の小国ソヴュール王国を舞台に、極東からの留学生、九城一弥と聖マルグリット学園の捕らわれの姫、ヴィクトリカが繰り広げるミステリーの第4弾。今回は、聖マルグリット学園に隠された錬金術師の謎を巡る物語。夏休みを目前に控え、浮かれた雰囲気の学園内の時計塔で死者が見つかる。その事件と錬金術師との関係とはいかに。

前巻までの、学園の外に出て冒険を繰り広げる形式とは異なり、今回の謎は学園内の謎。舞台はほぼ学園内に固定され、一同は謎の解明を目指す。派手な設定がない分だけ、今後の話に繋がる重要な人物や、鍵となる過去の歴史に触れられる。ヴィクトリカの出生の謎、彼女と一弥の今後にのしかかる暗い影。錬金術師の秘密を暴く過程で、隠されていた事実が徐々に明るみに出される。

この巻で、ヴィクトリカとアブリルが初のご対面となる。これまで一弥の心を鷲掴みにしてきたヴィクトリカのご登場に、アブリルもたじたじ。アブリルの淡い恋心も見所。

謎の錬金術師、リヴァイアサンは、思いの外、悲しい死を遂げた人物であった。背景にあるのは、ヨーロッパの植民地主義。相変わらず、ヨーロッパの歴史の闇を扱った、重さのある設定である。

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# 『就活って何だ 人事部長から学生へ』
2010/03/27 15:15
就活って何だ 人事部長から学生へ 森健 文春新書 2009年



現在の就職活動において、企業が学生に臨むこととは何だろうか。この疑問を、日本を代表する人気企業15社の人事部長に問うてみたのが、本書。そこから浮かび上がってくる、学生に求められる素質とはいかに。どのような学生を採用したか、あるいは、どのような学生が応募してきたのかについて、時には具体的な事例にまで踏み込んで、各企業の人事部長が2010年新卒採用の実態について語る。

筆者のまとめでは、これらの企業に採用される学生に共通している特性は、困難に負けず、チャレンジ精神に富み、リーダーシップを発揮しつつも、周りの意見に耳を傾けられる協調性やコミュニケーション能力に長けた人材であるという点。何とも、学生は大きなことを期待されているものだ。しかし、実際に各人事部長が採用した例として出す学生は、そのような才能に溢れているように思えた。行動力を発揮し、問題意識を持ってこれまでの活動に取り組み、リーダーシップも発揮してきたというタイプの学生だ。よく、「特別な経験はなくても良い。あっても必ずしもプラスになるわけではない」という文句を聞くことがある。これはこれで、真実を語った言葉であろう。人事担当者が口を揃えて言うことは、「どうして取り組み、経験から何を学んだかが大事」という視点。一方で、やはり稀有な体験が効果を持つことがあるのは否めない。これでは、「普通の」学生が怖気づいてしまうかもしれない。これを見かねた筆者が最終章で、普通の学生でも、自分と真剣に向き合い、就職活動を行うことで、突破口を見出せると言う。

本書の売りは、「人事部長が本音で語った」ということである。確かに、非常に具体的な事例とともに、採用の実態が述べられることもある。とはいっても、出版物になる以上、これだけが採用の現実と考えるのは早計であろう。各企業、「こんな優秀な学生さんが、他社ならず我が社に入社を決めました」と言いたくなってしまう気持ちは山々であろう。バイアスを意識しながら、読んでいかなければ、情報に踊らされてしまう。本書を通じて、各企業の人事担当者が繰り返し述べているのは、「マニュアルに惑わされるな」ということ。それなのに、この本で読んだことに必要以上に囚われ、自分を見失ってしまっては、何とも皮肉な結果だ。

現在は、本書に登場した人事担当者が就職活動をしていた頃と比べて、就職活動の実態が大きく変化した。人によっては、昔の自分は、現在だったら採用されないだろうと、語っている。これだけ巨大化・複雑化した就職活動において、学生が途方に暮れてしまうのは、もっともなことであろう。本書を読んだところで、結局、「自分の頭を使って考える」「積極的に社会人と会う」くらいしか、この試練を乗り越える方法を思いつけないほど、先が見えない世の中なのだろうか。

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# 『読むだけですっきりわかる国語読解力』
2010/03/23 08:25
読むだけですっきりわかる国語読解力 後藤武士 宝島文庫 2009年



一般に流布している国語問題に対する誤解を正し、解答に必要なテクニックを伝授すると同時に、そもそも文章を読むときに気を付けるべきことも解説し、読解力自体も伸ばそうという目標も掲げた本。

本書の大元は受験参考書。それだけに、入試問題が求める国語力や、入試問題の解法に関する記述必要である。しかし、解答の根拠を得るためには、そもそも論説文がどのように構成されているのか、文学的文章では登場人物の心情がどのようにして描写されるのか、などの知識を欠かすことはできない。そこで、本書はそのような基本的な事項にきちんと遡った丁寧な説明を付けている。抽象と具体、主観と客観など、どうしても読解に必要な概念をできるだけ噛み砕いた言葉で説明し、読者が理解できるよう努めている。

対象は、難関中学を受験する小学生向きである。それでも、実際の対象はもっと幅広く、読解力・解答力を身に付けたい者と言えるだろう。「国語には学年がない」と言われる。国語や読解に不安を抱えているのであれば、大学受験生、社会人であっても得るものは大きい。ベストセラーとなっている現代文参考書でも、苦手な人が本当に知りたいと思っている基礎の基礎に当たる部分は、意外と書かれていないことがある。本書は、そのような根本の部分で躓いていたり、いまいち納得のいかない思いをしている人にとっては、疑問を解決する糸口となるであろう。例えば、「どんなことか」という問いに対して、問題文を変形させて「~こと」という文末に変形させる手順について段階的に説明した解説は秀逸。また、どのようにして難しい問題ができあがっていくかについての解説も必見。

但し、本1冊を読んだだけですぐに身に付くのではないところが、読解の難しい点。知識として持っていることを、実際にできるようにするには、ひとつ壁を乗り越える必要がある。本書で漠然とでも国語問題に対する向き合い方を把握できたなら、いよいよ実践練習あるのみだ。

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# 『日本語ウォッチング』
2010/03/18 22:34
日本語ウォッチング 井上史雄 岩波新書 1998年



日本語は、乱れているのだろうか。「乱れ」として騒がれている言い方、用法をよく調べてみることで、驚くべき法則性が見つかったり、地方と東京との間を行き交う言葉の変化のダイナミズムを観察することもできる。本書は近年(1998年当時)話題になっている新しい言葉について、「乱れ」とは異なった視点で分析を試みる。

タイトルの通り、本書の立場はあくまで「ウォッチング」である。日本語の変化を嘆くことのではなく、変化の裏に潜む思わぬ法則や、長い時間の中で見た日本語の変遷過程について考察を巡らせることが、目的である。例えば、ら抜き言葉を、1000年の時を経て日本語が変化する過程として説明している第1章。日本語の動詞の活用が合理的になっていく様子、助動詞の意味の識別に関する問題などと関連させ、大きな流れを示している。第7章で取り上げられるアクセントの平板化も、発音の仕方を楽にしたり、アクセントの位置を個別に覚える必要をなくすという観点から見れば、合理化への道を辿っている現象だという。

また、本書で随所に紹介されているのが、地方の方言が東京に流入する「逆流」現象である。東京の言葉が標準語としての威力を持って地方へと拡大していくという考え方が一般的であろう。しかし、実際には地方の方言を東京の者が聞き、使うことによって、気付かぬ間にじわじわと方言の言葉や用法が浸透していくことが起こっているのである。「~じゃん」は静岡、「~っしょ」は北海道の出身だという。

さて、本書発売から10年が経過した現在、日本語の現状はどうだろうか。私の印象としては、本書で紹介されているような変化については、かなり浸透してきたと思う。その一方で、変化を拒む保守的な動きもむしろ強まったのではないかという印象がある。近年、日本語に関する書籍が一大ブームとなっている。その背景には、日本語に対する関心の高まりのみならず、「正しい日本語」を使いたいという欲求と、日本語の変化を嘆く風潮もあるのだろう。本書はそのような時代の流れの中でこそ、読む価値のある本だと思う。そもそも「正しい日本語」とは何か。日本語の変化の裏にある意味とは何か。このような疑問について考えてみることで、日本語について冷静に考えることができるのではないだろうか。現代に必要なのは、漠然とした概念である「美しい日本語」を追い求めて翻弄されることではなく、日本語を一歩離れて見つめる「ウォッチング」の姿勢だ。

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